朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
基本単語の効用 2017.07エッセイ・リストback|next

北朝鮮のICBM発射
 北朝鮮la Corée du Nordがほかならぬ7月4日、つまりアメリカの独立記念日Jour de l’Indépendance, [英]Independence Dayに最初のICBM, missile balistique intercontinentalを発射して、この超大国を挑発した。頭に来たか、Trump大統領はtwitterに書いた。
 Does this guy have anything better to do with his life?
 「この男には人生でなにかもっとましな仕事があるだろう?」
 小国とはいえ一国の指導者をthis guyと呼んだばかりか、anything betterというあたり、いかにもトランプ流だが、それで思いおこした。今年の就任早々、腹心のconseiller à la sécurité nationale大統領補佐官(国家安全保障担当)Michael Flynnを解任したが、その直前、捜査をはじめつつあったDirecteur du FBIのJames Comey 長官(彼も解任されたことは記憶に新しい)に会い、捜査中止を示唆しようとしてHe is a good guy「いい奴」と書いた。これは、後のWhite Houseの正式コメントでは、つぎのようになっている。
 While the President has repeatedly expressed this view that General Flynn is a decent man who served and protected our country,….
 「大統領が、フリン将軍はわが国に奉仕し防衛したしかるべき人物だ、という見解をくりかえし表明した間に…」
 いかにも当たり障りのない文面だが、こっちの方が、アメリカにかぎらずどこの国においても、政治家の発言として普通に接する、あるいは接することが予想される言葉遣いだろう。トランプ大統領はその常識を覆した。というか、覆すことで今の地位をかち取った。とすれば、彼のtweetは今後もよきにつけ悪しきにつけ、われわれにショックをあたえつづけるだろう。世界がどこまで辛抱できるか危ういかぎりだが、その一方でgoodやguyだけで大統領の職がつとまるのか、という当然の疑問が湧いてくる。この乏しい語彙は、そのまま当人の意識を支配する世界像の狭さ、固さ、偏りにつながるのではないか?
 この嫌な気分に一つの発見が薫風を吹きこんだ。ある教室でPhilippe Claudelの小説La petite fille de Monsieur Linn([和訳] 『リンさんの小さな子』;[英]Monsieur Linn and his child)を読んでいて、bon,bienのような素朴な基本単語(good, guyの同類)の効用を悟ったのだ。いきさつを説明するために、この作品を教材に選んだ理由から述べよう。第一に難民問題を扱っていること。2005年の作品だが、難民は現代世界にとって最重要な課題であり、しかも危機は募る一方。その意味で、20年近く経た今、このテクストはすこしも古びていない。つぎに、和訳の教材という観点から、限られた語彙で、しかも多く直説法現在形の短文を積み重ねて綴られた、200頁たらずの小説だということに注目した。生徒さんも抵抗なしに完読できるだろう。

Philippe Claudel By Thierry Caro ※画像をクリックで拡大
 いきなりC’est un vieil homme debout à l’arrière d’un bateau.「それは船尾に立つひとりの老人である」ではじまる物語は、結末までまことに素朴で平明な語り口に終始する。Linnという老人はおそらく戦禍の東南アジアから、船に乗ってフランスに避難してきた。彼が故国を捨てる決意を固めたのは、家族で唯一の生き残りの孫娘(冒頭では、生まれてまだ数週間)を育てたい一心からだった。彼はむろんフランス語を知らない。着いた先の国の文化も知るはずがない。物語はフランス語で綴られているが、書き手の目は異国で不安に駆られて生きるリン老人の目と重なっている。さきに「素朴で平明な語り口」と書いたが、それはリン老人になりすました作者の巧妙な詐術である。その証拠に、老人が故国で過ごした過去を回想する箇所が時おり出てくるのだが(クローデルが映画作家であることと無関係ではあるまい)、その都度、語彙はもとより、構文も時制も複雑化する。おや、と思っていると、また平明な基調にもどる、という仕掛けだ。
 前置きが長くなったが、わたしの発見とは、bonやbienでも、使い方次第では立派な小説が書ける、ということに尽きる。同作品から具体例をあげよう。
 老人は寒さと乏しい陽光に悩まされるが、孫娘のために厚着をして散歩に出る。急ぎ足の通行人にとまどいながら俯きがちに歩いていると、太った女性と激突。罵られる(むろんコトバは分からない)が、さいわい抱きかかえた孫娘に異常はなく、老人は祖母が歌っていたのを思い出しながら、子守唄をうたう。
 La chanson fait du bien au vieil homme. Il en oublie le froid et aussi la grosse dame dans laquelle il est entré tête baissée.
 「歌のおかげで老人は気が楽になった。おかげで寒さや、また俯いていてぶつかった太った女性のことも忘れてしまった。」
 彼は道端のベンチで隣り合った男性と顔なじみになる。相手はチェーンスモーカー。妻を失くした孤独をタバコで紛らしている。老人はタバコをやらないし、相手が勝手に話してきかせる家庭の事情もわかるはずがない。でも、二度目に会ったときに、変化が起こる。
 Parfois, un peu de la fumée de sa cigarette atteint les narines du vieil homme,et il se surprend à respirer cette fumée, à la faire entrer le plus possible en lui. Ce n’est pas vraiment que la fumée lui soit agréable , celle des cigarettes des hommes du dortoir est affreuse, mais celle-si est différente, elle a une bonne odeur, un parfum, le premier que le pays nouveau lui donne, et…
 「時おり、彼(相手)のタバコの煙がすこしばかり老人の鼻にとどく、そして気がつくと、老人はその煙を吸い、思い切り深く吸い込んでいた。実はその煙が心地よいというわけではないのだが、宿舎の同室の男たちのタバコの煙は不快だったのに、この煙はちがう、 これはいい匂い、芳香であり、この未知の国に来て初めて嗅ぐ芳香だ…」
 その香りから、老人は故国で嗅いだ村人の煙管タバコの匂いを思い出すのだが、それはまた別の話だ。肝心なのは、コトバではなく、タバコの煙が異国人同士の心の交流を仲立ちするという展開だ。大げさにいえば、ここに難民問題を解く一つのヒントがある。そして、威力を発揮するのがbonでありbienという基本中の基本単語なのだ。上の例からも察せられるように、生活に密着したこれらの語でなければ表現できない感覚があり、感情がある。そのレベルでは人間は異国人同士でも分かりあえる。ごく当たり前な話だが、そのことをこの作品は静かに、じわじわと説いている。
 トランプ流のtweetへの嫌悪感、あるいは蔑視のために、平易な基本単語の効用を軽んじてはならない。とりわけ外国語教師は、それを肝に銘じるべきだろう。


— 8月号は夏休みで休刊です。次号は9月号となります —


 
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