朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
ゆきちがい
2007.01エッセイ・リストbacknext

カミュ(1913-60)
  新年のサイトには不向きだとわかっているが、目の前に立ちはだかる「イジメ」を話題にしたい。
 きっかけは思いがけぬ所にあった。アルベール・カミュAlbert CAMUSの小説L'Etranger はいま『よそもの』という新奇な表題で注目をあつめているようだが、ながらく『異邦人』の名で親しまれてきたことはいうまでもない。その訳者は窪田啓作氏。半世紀も前、訳が出たころはフランス語の達人として名高く、晩年の短編集『追放と王国』L'éxil et le royaumeの和訳を担当したのも当然だった。ただ、辞書類が整備された今日の目から見ると、訳文は時に的確さを欠く。今度たまたま朝日カルチャーの仏語クラスでこの短編集中の一編「物言わぬ人たち」Les muets(窪田訳では「唖者(おし)」)をテキストにしたついでに参照したところ、つぎのような訳文に行き当たった。因みに、これはカミュの故郷アルジェと推測される港町にある小さな町工場のストライキの話。ここは発端を回顧的に説明した箇所で、工場主が工員たちとの賃金交渉の席で「呑むか呑まぬかそちら次第、決断するんだね」と言い放った。それにつづく部分で、工員がいきりたっていうのだ。
  «Qu'est-ce qu'il croit ? avait dit Esposito, qu'on va baisser le pantalon ? »
  窪田訳は「<あいつは何を思っているんだ! われわれがズボンでもおろすと思ってるのか>と、エスポジートが言った。」となっている。つまり下線部を字義通り、日本語におきかえたわけである。
  しかし、「ズボンをおろす」とは穏やかではない。というのも、折しも、福岡の中学2年生の男子がトイレでほかの生徒にズボンをおろされたことを苦にして自殺した、という事件が世間を騒がしたからだ。この衝撃的な事件については、その後に教育委員会の調査報告書が出て、「“いじめ”というより、ふざけあいのように見える」と判断した由。その判断が正しいとすれば、被害者と加害者のあいだに大きな「ゆきちがい」malentendu, misunderstandingがあり、それが悲劇を生んだことになる。その点については後述するとして、当面気になるのはカミュの描いた工員の場合だ。ほんとうに「ズボンをおろされそうになった」のだろうか?謎は辞書をひくことで解けた。
どうやらbaisser pavillon 「降参する(←船・軍艦の旗を下ろす)」の延長上にあると察せられるが、俗語の慣用表現にbaisser son pantalon, sa culotteがあり、「降参する」の意味だとある。何のことはない、比喩的な言い回しにすぎないわけだ。したがって、上の訳は「おれたちがおめおめ白旗をあげるとでも思ってやがるのか」くらいの日本語にすべきところだろう。
  同じ小説から、もっと興味をそそる例をつぎに引く。組合から派遣されている男と古参の工員とが工場主に呼ばれ、「いまは無理だが、業績が回復すれば昇給を考える」といった口約束を条件に職場復帰を求められる。こうして話がまとまりかけたので、工場主は組合員に歩み寄り、手をさしだして « Chao ! »という。すると、相手は血相を変え、敵意をあらわにして外へ飛び出してしまう。工場主もこれには驚いて顔蒼ざめ、もう一人の工員の方を顧みるものの、手はさしのべず « Allez vous faire foutre »とどなる、というくだりである。要するに、工場主の説得が、別れ際のChao(むろんイタリア語ciao「さよなら」の転用。tchaoとも綴る)の一言で水泡に帰してしまったことになる。一方は親愛の情を示したくて、わざと若者じみた口をきいたのに、他方は、その言葉遣いを聞きとがめて、労働者の誇りを傷つけられ、雇い主の傲慢さだけを感じ取ってしまったのだ。この不幸な「ゆきちがい」を演出するのにふさわしい日本語は何か。
窪田訳では「あばよ」である。その後の捨て台詞は「とっとと失(う)せろ!」となっているのだが、こちらはともかく、前者にはいささか不満がのこる。今の言語感覚なら、「バイバイ」とする方がまだしも原意に近いのではないか。和訳の難しさを痛感させる一語である。
  さて、カミュに思わず深入りしてしまった。いよいよ本題の「イジメ」に入ろう。

フロベール(1821 - 80)
  手近な例として、ギュスターヴ・フロベールGustave FLAUBERTの名作『ボヴァリー夫人』Madame Bovaryの冒頭をあげよう。後年ヒロインの夫になるシャルル少年がコレージュに編入し、校長に紹介されて早々、クラスのやんちゃ坊主たちからいじめられる場面である。作者としては、この「新人いじめ」brimade、bullyingの執拗さをもって、やがて典型的な寝取られ亭主cocu、decieved husbandになるべき人物の愚鈍さをこれでもかこれでもかというほど徹底的に印象づける狙いがあったことは疑いない。読者はシャルルの身になって、彼の苦悩に同情するよりも、クラスメートといっしょになって、彼の当惑を笑う、つまり「いじめる」側の味方をするのではないか。
「いじめる」にあたるフランス語を探すと、まず思いつくのはtaquinerだろう。興味深いのは、白水社ラルース仏和辞典のつぎの説明である。まずN0[人] ~ N1[人ら]からかう、とあるが、これは人が主語、目的語も人の形で使われる場合, 「からかう」の意味になるという意味だ。問題はその先につづく補足説明で、「わざとN₁が気を悪くするようなことを言ったり、したりしてからかうこと。悪意はなく、むしろ一種の愛情表現」とあり、さらにつぎのような例文が添えられている。
  Maman ! Paul m'a dit que je suis idiote, que je ne réussirai rien ! ---Il ne le pense pas, il veut
te taquiner. 「ママ、ポールはあたしのこと馬鹿だ、何をやってもうまく行かないぞって言うの---本当にそう思ってるんじゃなくて、あんたをからかいたいだけなのよ」
  英語ではto teaseがこれに当たるだろう。
 ~ a girl about her red hair 「赤毛だと言って少女をからかう」(新グローバル英和辞典)
  要するに、これら二つの動詞は日本語の「からかう」にかぎりなく近い。しかし、考えてみれば、それはあくまでも加害者(上の説明のN0)の側の言い分であり、被害者(同じくN1)にしてみれば、それは「イジメ」としか受け取れぬことが多いにちがいない。その結果persécuter (to persecute)「迫害する」や, tourmenter(to torment)「悩ませる、苦しめる」という一段と攻撃的な傾向の強い動詞にかぎりなく近い行為として受け取られる事態だって生じるだろう。第三者からすれば、前述の工場主/工員のやり取りのように、N0N1両者のあいだに「ゆきちがい」があることを指摘できるのだが、現実には、組合員のように激高したり、中2少年のように自殺したりすることを防げない。
  この事態を前にして、わたしにいえることは「外国語と日本語とのあいだはもちろんだが、日本語と日本語のあいだにも隙間があることを片時も忘れてはならない」、に尽きる。
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