朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
ユーロ危機の裏で(続) 2012.1エッセイ・リストbacknext

シャトーブリアン
 ギリシアのEU加盟を先導したジスカール・デスタン元大統領が、ユーロ圏への参加には反対した。それは何故か?むろん、今日のユーロ危機を見越していたからだと元大統領は胸をはるつもりだろうが、その彼にしてもヨーロッパ思想の源流プラトンへの恩義にとらわれていたことを見逃すまい。その意味では、古代世界に流通していたドラクマの盛名をユーロの重しに使いたいと考えた後輩たちの発想と五十歩百歩のところにいる。そう考えると、あたかもフランスの国内問題であるかのようにシラク・ジョスパン路線を批判する資格があるのかどうか怪しいものだ。
 要するに、問題の根はヨーロッパ人の心に巣くうギリシャ崇拝の気持にあるのではないか。その端的なあらわれは少し時代を遡るが、英国のByronやフランスのChateaubriandをまきこんだphilhellénisme;[英]philhellenism「ギリシャ独立支持運動」に認められる。この機会に確認するのだが、ギリシャの歴史はl’Antiquité「古代ギリシャ・ローマ文明」をリードした古代ギリシャと1830年のロンドン会議で独立を承認された現代ギリシャとに二分されている。その間-----東ローマ帝国の時代はギリシャ語を公用語としていたから別だとしても-----Constantinopleの占領(1453年)から上記の1830年までl'Empire ottoman「オスマン帝国」支配の時代がつづいたから、はたして400年という時間を超えて、民族のアイデンティティが保持できたのかどうか疑わしい。しかし、philhellènes(「ギリシャ独立運動闘士」、広義では「親ギリシャ主義の信奉者」)は、トルコ人の隷属下にあるギリシャに住む人々をあくまでもHellènes「古代ギリシャ人」の末裔とみなし、彼らを異民族の手から解放し、古代の栄光を取り戻させることを責務と考えた。
 シャトーブリアンは19世紀を代表する大文学者だが、1820年代はむしろ外交官として活躍し、外務大臣まで務めた。が、国王と対立し、野にくだった。そして、ギリシャ委員会comité grecに加わって、独立戦争を支援した。彼の自伝ともいうべきMémoires d'Outre-Tombe『墓の彼方の回想』の28巻9章にはつぎのような文句が残っている。
 Je me dévouai à la liberté de la Grèce ; il me semblait remplir un devoir filial envers une mère.(une mèreは女性名詞のGrèceを指すのだろう)
 「わたしはギリシャの自由に身命を賭した。親孝行の務めを果たしているように思えた」
 十字軍に参加した騎士を先祖にもつ彼は、イスラム教帝国に挑戦するギリシャ反乱軍に新しい十字軍を重ね合わせていたのかもしれない。10年におよぶ戦いの結果、上記のように独立は勝ちとられたが、自力ではない。ロシアの南下政策を阻もうとして英国とフランスが介入し、結局はヨーロッパの3大国の圧力がトルコを屈服させたのにすぎなかった。
 しかも、シャトーブリアンをはじめphihellènesが期待した共和国は実現せず、Bavièreバイエルンから王子が天下ってOthon 1erオトン1世として君臨する王国にとどまった。その後も独立とは名ばかりで、ナチス・ドイツ、ブルガリアの支配をうけねばならなかったから、古代の栄光の回復は夢のまま残ったというべきだろう。
 それにしても、いや、それだけに、ギリシャのEUとユーロ圏への参加承認は、トルコがいまだに局外におかれていることとあわせて、ヨーロッパに残るphilhellénismeの根強さを抜きにしては理解しがたいのではないか。
 他方、これほどまで恋い慕われたギリシャ側は今度の危機をどう受けとめているのか。それを推し量る一つの材料を、Yann Plougastelの « Coupable »n'est pas grec.「<責めを負う>はギリシャ語にあらず」(10月1日付ル・モンド紙。NapoléonのImpossible n'est pas français.「不可能はフランス語にあらず」のもじり?)が興味深い逸話を紹介している。今の危機を防ぐために7月、EUがギリシャに対し1600億ユーロの借款を認めた(その後の展開を見れば、焼け石に水だったことになるが)二日後の話である。
 高名な建築家の未亡人がアテネの豪邸で10人ほどの晩さん会を開いた。列席者は大学教授や外交官、別荘の周旋屋、ナイトクラブのオーナー、古美術商、俳優、ジャーナリストといった面々。食後、Syros, Mykonos,Parosに向かうフェリーボートの灯火を見下ろすテラスで一同くつろぎ、会話がはずんだ。失業率は17%、その3分の1は若年層、倒産は10%アップ、消費の落ち込みは6.8%。そんな現実はどこ吹く風の気配にたまりかねて、ある外国人客が質問した。
 Quand même, tout cet argent que les Européens vous donnent, cela ne vous gêne pas ? Vous ne vous sentez pas un peu coupables ?
 「やはりこれだけの金をヨーロッパ側が皆さんに与えたわけですよねえ、気詰りじゃありませんか?いささか気がとがめるのじゃありませんか?」
 一座がシーンとした中で、造形芸術の先生をしている外交官夫人が昂然と言い放った。
 Les Grecs vous ont donné la démocratie, la philosophie, l’art, le théâtre, l’architecture et que sais-je encore. L'Europe nous doit beaucoup plus que quelques milliards d'euros.
 「ギリシャ人があなたがたに提供したものは、民主主義、芸術、演劇、建築など、その他いろいろ。私たちギリシャに対するヨーロッパの負債は数十億ユーロなんてものではありませんよ」
 これに続いて、ギリシャの作家、ジャーナリストTakis Theodoropoulosの解説が披露されている。彼は、ギリシャ人の一部が愛国心におぼれて危機の大きさを見ようとせず、何故ヨーロッパがこれほどの金を供与するのか分かっていないとしたうえで、こういう。
 La Grèce a été admise en 1981 dans la Communauté européenne pour des raisons culturelles et pas du tout économiques ou industrielles. Il ne pouvait y avoir d'Europe sans le Parthénon. Et ça, la Grèce ne l’a jamais assumé.

パルテノン神殿
 「ギリシャは1981年にヨーロッパ共同体に加盟を認められましたが、その理由は文化的なもので、経済または産業上の理由ではまったくありませんでした。パルテノン宮殿抜きのヨーロッパはありえなかった、それがポイントです。ところが、当のギリシャがその事実を正面から受けとめたことは一度もないのです」
 なんというすれ違いだろう。しかし、それが世界全体の経済を破局に追い込んでいる。
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