朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
オバマ大統領のベトナム訪問 2016.06エッセイ・リストbacknext

オバマ大統領のハノイ訪問
(5月25日付ル・モンド紙) ※画像をクリックで拡大
 伊勢志摩G7(Groupe des sept)の集合写真を見ていてあらためて気づいたのだが、米国、ドイツ、フランス、英国、イタリア、カナダ、日本の7カ国首脳とならんで、欧州委員会委員長Président de la Commission européenneのJean-Claude Juncker氏と欧州理事会議長Président du Conseil européenのDonald Tusk氏の姿があった。EUを忘れるな、という感じ。さらにいえば、G7はそもそもune plate-forme de discussion informelle et régulière entre chefs d’Etat, favorisant la coopération au plus haut sommet et la définition d’objectif commun「国家元首同士の非公式で定期的な論議の場で、最高レベルでの協調と共通目的の確定をうながすためのもの」(Wikipédia)だというが、鵜呑みは禁物なこと。なにしろ首脳たちはそれぞれに国内問題をかかえているから(たとえば、フランスのHollande大統領はla Loi travail「労働法」改正反対運動の盛り上がり、英国のCameron首相はBrexit「EUからの離脱」をめぐる国民投票切迫)、どこかの首相が勇み足をしても、それをたしなめる余裕のあるはずがない。
 同じことはObama大統領にもいえる。日本のメディアはG7よりも彼の広島訪問に夢中になったが、大統領としては先輩たちの名誉挽回が何よりも優先する。訪日前にHanoïに立ち寄り、Nguyen Xuan Phuc首相と会談していたことを見逃すまい。5月25日付のル・モンド紙はCNN放送をひきつつ、記事をこう始めた。
 La roue de l’histoire a bien tourné. Ennemis hier, les Etats-Unis et le Vietnam sont aujourd’hui des alliés.
 「歴史の輪はうまく回った。昨日は敵同士だった合衆国とベトナムは今日では同盟国だ。」 
 この記事には笑顔の二人が両国旗とHô-Chi-Minhの彫像の前に立つ写真が添えられている。この北ベトナムの英雄を相手に1955年から20年間(本人は途中の1969年に他界)Eisenhower、Kennedy、Johnson, Nixonと実に4人のアメリカ大統領が泥沼の戦いを強いられたのだった。その間に失われた膨大な数のベトナム人の命(1995年4月3日の同国政府発表によると、戦闘員100万、民間人200万にのぼる)を思えば、記者も「歴史の輪(運命の女神が回すとされた輪をなぞっている)がうまく回った」(むろんmal tournéという場合もある)というのが精一杯だろう。ただし、ここはそんな感傷にひたっている場合ではない。というのも、記事はつぎのようにつづくからだ。
 En visite depuis lundi à Hanoï, le président américain, Barack Obama, a scellé un peu plus ce partenariat en annonçant la levée complète de l’embargo sur les ventes d’armes, l’un des derniers « vestiges » de la guerre ayant opposé les deux pays jusqu’en 1975.
 「月曜日からハノイ訪問中の米国大統領バラック・オバマは武器輸出禁止措置の完全撤廃を告げて同盟関係を前よりいくぶん強固にひきしめた。この禁止こそ1975年まで両国を対峙させていた戦争の最後の<傷跡>の一つなのだが。」
 この背景には何があるのか。
 Imposé en 1984, cet embargo avait été partiellement levé en 2014, mais les autorités vietnamiennes voulaient aller plus loin dans un contexte de crispations grandissantes avec la Chine en mer de Chine méridionale.
 「1984年に課されたこの禁止措置は、2014年に部分的には解除されていたのだが、ベトナム当局は、南シナ海で中国との増大する緊張関係のなかで、解除を拡大するように望んでいたのだ。」
 いってみれば、昨日の敵の米国に武力支援を求めたことになるが、皮肉なのは、今度の敵は中国、つまりかつてホーチミンを支援していた味方であることだ。

1941年、サイゴン市内の日本軍 ※画像をクリックで拡大

 三国関係の絡み合いに着目したついでに、ベトナムにかかわる日本の過去を考えあわせてみよう。「日中戦争」guerre sino-japonaise(日本政府は「支那事変」affaire de Chineという呼称にこだわった)の際、中華民国République de Chineの抵抗は予想外に強かった。先頭に立つTchang Kaï-chek蒋介石の軍隊を背後から支援する外国勢力がひかえていたからだが、なかでも英国、ソ連とならんで米国の存在が大きかった。この時、最大の供給ルートはハイフォンHaïPhòn港からハノイを経、雲南鉄道voie ferrée du Yunnanを用いるコースだった。ところで、このインドシナ半島は1887年以来、植民地としてフランスが支配していたから(仏領印度支那、略して仏印と呼ばれた)、日本が蒋介石軍抵抗の源を断とうとすれば、フランスにルート閉鎖を求めねばならない。しかし、交渉は難航した。おりしもヨーロッパではナチス・ドイツが仏領に侵攻、1940年6月フランスは敗北。休戦後のフランスにはVichy政府ができたが、この混乱に乗じて日本は即時閉鎖を要求、外交交渉に苛立つ陸軍部隊が9月仏印に侵入するにいたった。いわゆる「仏印進駐」だが、フランス語ではInvasion japonaise de l’Indochine「日本によるインドシナ侵略」以外ではない。北部ついで南部へと拡大した仏印進駐は武力を背景にしていたにもせよ、日仏間の協定le protocole franco-japonais, Accords Darlan-Kato(ヴィシー政府ダルラン副首相と加藤駐仏大使との協定)を生んだことは事実で、仏印に派遣され、フランス人に接し、生のフランス語を使う貴重な体験を積んだ仏文学者たちがいた。協定が「フランスの主権」souveraineté françaiseを認めていたからだが、反面、日本軍が仏印領内に「駐留する」stationnerことを容認するものでもあった。このため、米国政府はこの「進駐」につよく反対し、対日石油禁輸や日本資産凍結のような「経済制裁」sanction économiqueを加えてきた。手近な例をあげれば、日本は現在の北朝鮮のような立場に追い込まれたわけで、これが翌1941年12月の日米開戦の引き金になった。仏印進駐こそ「帰還不能点」point de non retour, [英]point of no return(原義は「飛行機がこれを過ぎると出発地に戻れなくなる燃料の限界点」を指す航空用語)だとする説が学者のあいだで有力だという。  
 友好的な日米関係をベースに中国への対抗姿勢をつよめようと息巻く安倍首相は、過去の歴史から何を学んだのだろうか。


 
筆者プロフィールbacknext

【NET NIHON S.A.R.L.】
Copyright (c)NET NIHON.All Rights Reserved
info@mon-paris.info