朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。

「国籍」とは何だろう?(3) 2020.2エッセイ・リストbacknext

三島由紀夫 ※画像をクリックで拡大
 『吾輩は日本作家である』の語り手で、かつ主人公の「私」(前回ふれた『書くこと 生きること』を読めば、作者自身とみてもよさそうだ)にきっかけを与えたのは三島由紀夫だった。過去をふりかえりつつ、「私」はこう綴っている。[ ]内の追記を除き、これまで同様、立花英祐訳による。
 Chaque nuit je rêve encore de ces orages tropicaux qui font tomber les mangues lourdes et sucrées dans la cour de mon enfance. Et aussi de ce cimetière sous la pluie. La libellule aux ailes translucides vue pour la première fois un matin d’avril. La malaria qui a décrimé tout mon village et emporté mon premier amour, celle à la robe jaune. Et moi,fiévreux tous les soirs, en train de lire Mishima sous les draps. (pp.27-28)
 「いまでも私は、夜毎、熱帯性暴風[トロピカル・ストーム]が吹き荒れる夢を見る。すると、少年時代の中庭に、ずっしりとした甘いマンゴーが落ちるのだ。雨の降る墓地。四月の朝、初めて見た透明な羽を伸ばしたトンボ。村の人々をなぎ倒し、私の初恋も奪い去ったマラリア。黄色いワンピースの子だった。そして私は熱病にかかったように、毎晩、シーツを被って、三島由紀夫を読んでいた。」(26-27頁)
 マンゴー、トンボ、マラリア、初恋の少女、三島。シュールレアリストの詩さながらに奇抜な取り合わせが目をひくが、要は、三島が子供時代のハイチの思い出の中に食い込んで消えないということだ、あたかもカリブ海の島に落下した隕石のように。
 Adolescent, j’étais tombé sur un de ses romans au fond de la vieille armoire en même temps qu’une bouteille de rhum. D’abord une longue coulée de feu. J’ouvre ensuite le livre (Le Marin rejeté par la mer) et un essaim de voyelles et de consonnes survoltées me sautent au visage.(pp.28-29)
  「少年だった私は、古い家具の奥に押し込まれていた三島の小説とラム酒の瓶をたまたま一緒に見つけただけなのだ。まずは熱い炎が喉を下っていった。それから私は本(『午後の曳航』)を開いた。すると[異常に興奮した]母音と子音の一群が飛び出てきて私の顔に降りかかった。」(27-26頁)
 Gaston Renondeauによる仏訳Le Marin rejeté par la mer (直訳すれば「海から投げ返された船乗り」)の刊行は1968年のことだから、1953年生まれのラフェリエールがハイチ(cette petite ville endormie「あの眠りこけた小都市」と呼んでいる)のような辺境で「少年期」に読んだとすると、よほど恵まれた読書環境にいたことになる。5人いた叔母さんたちか、その恋人の誰かが三島ファンだったせいだろうとあるが、いずれにせよ、「私」ははからずも『午後の曳航』に自宅でめぐりあった。そして、初めて口にするラム酒と同時に、三島文学の洗礼を受けたわけだ。英雄として憧れていた父親の凡庸さを知って荒れ狂う少年の反抗、これがどれほどはげしく「私」の心を捉えたかは十分に察しがつく。しかし、ここで注目したいのはその点ではない。何気なく「異常に興奮した母音と子音の一群が飛び出してきて」と書いてあるが、考えてみれば、それはルノンドが訳出したフランス語の音であって、原作者三島が書いた日本語の音ではないはずだ。ところが、「私」はそんなギャップを物ともせず、三島「蜂」の群れに刺されるほどの衝撃を受けたというのだ。
 Cela faisait un moment qu’elles attendaient de la visite. Et dans ce cas-là, on ne fait pas le tri. On ne regarde pas à la couleur. Le livre de Mishima ne s’est pas dit « tiens, voilà un bon vieux lecteur japonais ». Et moi, je n’ai pas cherché un regard complice, des couleurs reconnaissables, une sensibilité commune. J’ai plongé dans l’univers proposé, comme je le faisais si souvent dans la petite rivière pas loin de chez moi. J’ai à peine fait attention à son nom, et ce n’est que bien longtemps après que j’ai su que c’était un Japonais.(p.29)
 「しばらく前から[母音や子音は]待ち受けていたのだろう。そんな時には、選り好みしている暇はない。どんな色をしているかなどどうでもいい。三島の本だって、「おや、日本のなじみの読者が来た」などと思いやしない。私も仲間内の目配せや、分かる人にだけ分かる色や、共有される感受性を探し求めていたわけではない。目の前の宇宙に頭から飛び込んだまでだ。家から遠くないところに流れている小さな川によく飛び込みに行ったが、それとたいして変わりないのだ。私はろくすっぽ著者の名前など見なかったから、日本の作家だと知ったのは、それからずいぶん後になってからだ。」(28頁)
 ここで、わたしはLuc Ferry(哲学者、大学教授で、政治家)がMaurice Barrèsの小説Les Déracinés『根こぎにされた人々』(1897)の再評価を求めたことを思い起こす。

元ハイチ大統領 Jean-Calude Duvalier ※画像をクリックで拡大
 Faut-il déraciner nos enfants pour leur donner accès à la culture universelle ou, au contraire, les enraciner dans les particularités de leur terroir d’origine ? (Magagine littéraire, déc.2016)
 「子供たちを根こぎにして普遍的な教養に道をひらくべきか、それとも逆に、生まれついた土地の特殊性の中に根付かせるべきか?」(「文芸マガジン」2016年12月号)
 バレスは普仏戦争に敗れた後、パリに憧れ経済的な富しか眼中にない若者たちに「根っこ・家族・軍隊・生まれ故郷への愛着」を説いて一世を風靡したが、この大時代な作品が、EU体制堅持の是非が問われる21世紀の読者にどう受け止められるか?これはこれで大問題だが、当面、本稿との関連でいえば、「私」=ラファリエールが親子二代の独裁者として名高いJean-Claude Duvalier大統領の秘密警察の手を逃れて故国を捨て、23歳の若さで、否応なしにdéracinéになったこと、しかも、その悲運を逆手にとって国境を超越してしまったことに注目しよう。
 Je suis étonné de connaître l’attention qu’on accorde à l’origine de l’écrivain. Car, pour moi, Mishima était un voisin.(pp.29-30)
 「私は唖然とするしかなかった。作家の出身地がさも大事なことでもあるかのように語られるからだ。三島は隣人だった。」(28頁)
 このあと、「私」は濫読した作家名を列挙する。Flaubert, Goetheから、Shakespeare, Cervantèsなどを経て、Cesaire(マルテイニック出身)、Amado(ブラジル出身)に至る。その上で、つけ加える。
 ...tous vivaient dans le même village que moi. Sinon que faisaient-ils dans ma chambre ?
 Quand des années plus tard, je suis devenu moi-même écrivain et qu’on me fit la question : « Etes-vous un écrivain haïtien, caribien ou francophone ? » je répondis que je prenais la nationalité de mon lecteur. Ce qui veut dire que quand un Japonais me lit, je deviens immédiatement un écrivain japonais. (p.30)
 「生まれた国は違っても、どの作家も私と同じ村に住んでいた。そうでなければ、どうして彼らが私の家に居合わせたのだろうか。何年も経って、私自身が作家になると、よく質問を受けた――「あなたはハイチの作家ですか。カリブ海の作家ですか。それともフランス語圏の作家ですか」。私は、読者の国籍が私の国籍だと答えた。ようするに、読んでくれる人が日本人なら、私はたちまち日本作家になるのだ。」(29頁)
 さて、その上で、「私」を待ち構えていたのは何だったのだろうか?

 
筆者プロフィールbacknext

【NET NIHON S.A.R.L.】
Copyright (c)NET NIHON.All Rights Reserved
info@mon-paris.info