朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
 
大江文体の特異さ 2023.03エッセイ・リストbacknext

大江健三郎
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 大江健三郎の訃報は逸早くフランスにも伝えられた。le Mondeの記事はこう書き出されている。
 Rarement un auteur fut plus viscéralement de son époque. Par sa carrière littéraire et par les combats qu’il mena, Kenzaburô Oé fut une incarnation de l’histoire intellectuelle du Japon de l’après-guerre, dans ses espoirs comme ses désillusions.
 「一作家がこれほど根深く自分の時代と軌を一にしたことはめったにない。大江健三郎は、文学者としての業績と彼が遂行した戦いとを介して、戦後の日本精神史の化身だった、その希望と幻滅の両面で」
 要するに日本文化を代表する高みに立っていることが改めて確認されたわけだが、70年ほど昔、同じ仏文科の学生として机を並べていたわたしとしては、駒場の学生新聞の懸賞小説当選の勢いを駆って文学雑誌に進出し、卒業前に芥川賞を受賞した天才という印象に未だに圧倒されたままだ。このフランス語講座との関連でいえば、特に初期作品に著しいフランス語の「直訳」を装った文体が強烈だった。
 受賞作の「飼育」から例をあげる。太平洋戦争の末期、主人公の少年「僕」の住む山中に米軍機が墜落する。機体は大破し、山火事対策に出向いた大人たちが生存している黒人兵を発見し、人里に連れてくる。それを見たさに僕は駆けつけるのだが、子供はダメと言われてしまう。
 「失望が樹液のようにじくじく僕の体のなかにしみとおって行き、僕の皮膚を殺したばかりの鶏の内臓のように熱くほてらせた」
 注目点は二つある。
 第一は、「…のように」の連発。これは学生が教室で訳読の際に口にするフランスの小説にそっくりな印象を与える。大江が好んだSartreから一例をあげる。短編小説Le Mur「壁」の一文。スペイン市民戦争中、「私」はフランコ政府側に捕えられ、死刑執行を翌日に控えて、収容所の一室で太った仲間が寒さしのぎに体操するのを見ている。
 Je pensais que des balles de fusil ou des pointes de baïonnettes allaient bientôt s’enfoncer dans cette masse de chair tendre comme dans une motte de beurre.
 「このやわらかな肉塊に、まもなく、鉄砲の銃弾か、あるいは銃剣の切っ先がバターの塊に刺さるように突き通るのだろうと、わたしは考えた」
 第二は「失望」のような抽象名詞が主語になっていること。「飼育」ではこれが意図的に繰り返されて、従来の日本文学にはない独創的な効果を発揮する。しかし、フランス語では当たり前な表現形態だ。Radiguetといえば、20歳で夭折した天才作家として知られるが、彼のLe Bal du comte d’Orgel 『ドルジェル伯爵の舞踏会』をある所でたまたま取り上げ、堀口大学(講談社文芸文庫)、生島遼一(新潮文庫)、渋谷豊(光文社新訳古典文庫)、3訳の比較を試みているので、そこから3例をあげる。
 ① Mme d’Orgel は夫の友人Françoisに恋してしまうが、貞節を守るため、彼の母Mme de Sérieuseに手紙を書いて、息子に因果を含めて自邸でのパーティに来させないようにしてくれと懇願する。しかし亡夫との付き合いしか知らない母親には、手紙の趣旨が理解できない。
 L’honnêteté, la vertu peuvent mettre dans un état d’incompréhension féroce.
直訳だと、「(夫への)誠実さと貞操は(人を)極度の無理解の状態に陥らせるかもしれない」となるが、これでは日本語になっていない、と訳者たちは考えた。そこで、次の訳文が生まれた。
 「貞淑と貞操にこりかたまると、おそるべき無理解に陥る事があり得る」(堀口)
 「貞淑と美徳はおそろしいほどの無理解の状態に人をおとしいれることがある」(生島)
 「なまじ誠実さや貞淑といった美徳を身につけていると、ひどく偏狭な考えに陥ることがある」(渋谷)
 ② ドルジェル伯爵邸の仮面舞踏会の下相談をする宴会の場面。伯爵夫人とフランソワは離れ離れの席にすわることになった。
Le hasard ou plutôt les convenances agissaient avec à-propos en plaçant le prince russe à côté de Mme d’Orgel, François à côté de la petite veuve.
 ① の場合と同様、訳者は抽象名詞が主語になっている長文の「日本語化」に苦労している。
 「偶然がと云うよりも、むしろエチケットが、丁度いい具合に、マアオ(=伯爵夫人)の隣席に露西亜の公爵を、フランソワをこの若い後家さんのとなりに置いたのだった」(堀口)  「偶然というか、むしろそれは礼儀作法からだが、ロシア公爵のそばにドルジェル夫人を、フランソワのそばに年若な未亡人をすわらせたのは好都合だった」(生島)  「ドルジェル夫人の隣にロシアの大公を、ペルシアの若い未亡人の隣にフランソワを配したのは、偶然の----というよりむしろ社交界のしきたりの---時宜にかなった計らいだった」(渋谷)
 ③ ②につづく部分。伯爵夫人はフランソワが母に会ったばかりか、問題の手紙を見せられたこ とを知らずにいる。そこで、隣席の若い女性と陽気に話し合っていることが気に食わない。息子の恋に気づいていると言ったセリユーズ夫人の言葉を疑い、自分の片思いだと考え始めた。
 Mais aussitôt mille détails, qu’elle(=Mme d’Orgel) repoussait jadis et auxquels son esprit n’opposait plus de résisitance lui prouvèrent que son amour était patagé. (下線は朝比奈)
 ここでもmille détailsが主語で、伯爵夫人が間接目的補語になっているため、和訳にあたっては、人間主体の構文を常態とする日本語の読み手を戸惑わせない工夫がいる。
 「然しまたそれと同時に、以前彼女がフランソワの恋の証(あかし)として否定していたさまざまな事実で、今ではようやく彼女の心が拒もうとしなくなっている多くの事実が、彼女の恋が片恋でないことを証拠立ててくれるのだった」(堀口)
 「が、またすぐ、以前にはいちずにそんなものをと否定しつづけていたが、今ではもう彼女の心が抵抗しようもなくなっている数々様々の事柄が、彼女の恋は片思いではないと証明するのでもあった」(生島)
 「だが、かつて必死に払いのけようとし、いまではもう心が拒むこともなくなった無数の小さな思い出がまた鮮やかに甦ってきて、やはり私がフランソワを愛するように、フランソワも私を愛しているのだと思い直した」(渋谷)
 最も新しい渋谷訳が日本の読者に寄り添う傾向が著しい。それだけに原文の構造を組み換え、説明的な言葉を追加していることが見てとれる。特に③の場合を見ると、ほとんど翻案に近い。読み易さを貴ぶ文庫の編集方針に沿っているのかもしれないが、その分、ラディゲの原文の簡潔さが損なわれたという憾みが残る。

モディリアーニが描いた
Raymond Radiguet
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 ここで思い起こすのは、上記の大江の文章だ。世紀の変わった今、読み直してその新鮮さに驚く。昔は目くるめくような文才だけを見ていたが、短見だった。それと同時に、終戦直後の改革の雰囲気にふさわしく、新しい日本語を生み出したいという実験精神にあふれていたのだ。
 近在の公立図書館の書棚を見たら、大江健三郎の文学書は岩波文庫の「自選短編集」一点だけだった。大江は難解だという世評の反映なのだろうが、ノーベル文学賞作家を敬遠して安易さに流れる風潮を故人はどう思うだろう。わたしたちは、あの文体に今一度挑戦すべきではないか。




 
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