本論文はフランス語で書かれたものだが、初めに日本語の要旨を載せる。
「クレーヴの奥方」と「源氏物語」
箱山富美子
1978年6月27日
パリ第三大学
修士論文
指導:
エチアンブル教授 (パリ第三大学比較文学研究所)
オリガス教授 (パリ第三大学東洋語学研究所)
日本語要旨
本研究は、愛に対する不信を両作家両作品の心理理解の鍵として捉えて分析している。
第T部においてはまず紫式部日記、ラファイエット夫人の書簡等を検討して、両作者が同質のペシミスムを持っていたことをみる。そして時代的家庭的環境を比較して、そこに絶対王政、宮廷文芸サロンの興隆、中流貴族出身でありながら最上流貴族の中に生活した知識人という共通点を取り出し、成り上がり者のジレンマ、知識階級特有の鋭い洞察力、中流階級故の人生に対する懐疑等が作品中にあらわれていること、及び、作中人物に対する作者の視点が共通していることを指摘する。
第U部では、膨大な「源氏物語」の中から「光源氏?藤壺?桐壺帝」と、「匂宮?浮舟?薫」の関係を取り出して分析し、「ヌムール公?クレーヴ夫人?クレーヴ公」の関係と対比させている。3つの恋愛の型、および主人公達の性格、その描写法を抽出すると、次のように図式化される。
「妻」および「恋人」には最上級を使うか、他人との比較によって、また他人に驚きを与えることによって、いかに魅力的で優れているかを表わす、という描写法が繰り返し採られている。(ここに宮廷という場の人物評価の方法を見ることもできる。)それに対して「夫」は性格的には沈着で申し分ないとされていながらも、その描き方には全然光が当てられていない。じみな扱いの「夫」と、ドン・ジュアン的負の要素すら美点に転換されている「恋人」とは、性格からも描写法からもあらゆる点で補完関係にあると言えよう。
だが、両作品の最大の類似点は、恋愛に対する女性主人公の心理の推移にある。彼女達は外的束縛(有夫の身)と内的情熱(運命的とみなされる恋)の葛藤に悩む。が、夫の死などで外的束縛が取り除かれても、なお2つの内的束縛が残る:罪の意識(不義の子や嫉妬による夫の死など)と、夫の誠実さに対する感謝の気持ちである。そして罪の意識からは魂をかき乱す「恋」への疑問が、誠実な夫と恋人を比較する事からは「愛の不変」に対する疑問が芽生え、やがては「愛は必然的に不幸をもたらす」との確信が女主人公の心を占めるようになる。そして遂に、恋愛からの超克を求めて隠棲するところで物語は終わる。
この図式は、源氏物語中、様々なヴァリエーションで繰り返されるし(「朝顔」や「宇治の大君」など)、ラファイエット夫人の他の作品(とりわけ「タンド伯爵夫人」)もまたすべて、同じ構造である。その事からみても、また、「クレーヴの奥方」後半部分や「宇治十帖」では、女主人公達のこのような心理過程が主に描かれていて、彼女達の心の動きによって物語が進展していくということからみても、作者たちがいかに深く、この主題に憑かれていたかがわかる。
本研究はまた藤壷譚を「クレーヴの奥方」前半に、浮舟譚を同後半に対応させて、作家としての成熟の跡を辿り、古物語の影響をどのように受け、どう脱却したかを見る。
描写法を例にとると、両作品の前半では人物の理想化、抽象化が強く、後半では具体的現実的になっている。物語のトーンも前半はおおらかで明るく、後半は暗く、緻密になる。女主人公の苦悩の質もその分析も、後半にいく程深く、鋭くなる。
以上のような第2部での作品分析をふまえて、第3部では、作者達が古物語から近代小説へ意識的に転換していったことを見る。源氏物語に開陳されている小説論や、ラフエット夫人がユエやスグレの影響を受けて、romanからnouvelleへの変革を目指していた事実を挙げつつ、小説技法の変化が両作品の内部に見られることを指摘する。たとえば物語の展開では、前半、他の恋愛譚の挿入やら脱線やらが随所に見られるのに対して、後半は女主人公の心理の推移一本に絞られるなど。
即ち、両作品とも、前半を古物語の影響を強く受けた部分、後半を近代小説的革新を行った部分として捉える。そして最後に、この観点から、両国文学史上における両作品の位置づけを行っている。