(後編から続く)
ところで、ちょっと私事になるが、私は、小さい時から、南米系の曲が好きで、カリブ海地域、アンデス民謡、ボサノバ、ラテン、etc.の歌を、よく聞いていた。スペイン語、ポルトガル語の歌詞が付いていると、レコードを聴きながら、それを読んで、意味もわからないまま、どんどん覚えた。その中に、1927年、ニューヨーク生まれのカリブ系歌手がいる。Harry Harold George BELAFONTE (ハリー・ハロルド・ジョージ・ベラフォンテ)。Martinique(マルティニック = ナントに積み上げられて熟成されたバナナの産地の1つで、仏領海外県)島出身の父と、Jamaica (ジャマイカ)出身の母を持つ彼は、40数年に及ぶ歌手生活を通じて、黒人の地位向上と差別撤廃に、大きな功績を遺している。それは、Martin Luther KING(マーティン・ルーサー・キング)牧師 (アメリカ合衆国のアフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者で、プロテスタント・バプティスト派の牧師。“I have a dream”で始まる演説でも知られている =『 私は、いつの日か、このジョージアの赤土の丘の上で、かつて奴隷であった者達の子孫と、かつて、その所有者であった者達の子孫が、兄弟として、同じテーブルに座ることの出来るようになるのを願っている。・・・』)の業績にも匹敵すると言われている。
私の母が、何故か彼の歌を好きだった。おそらく、NHKで放送されていた《世界の音楽》という番組で聴いたのが、発端だろうと思うが・・・。で、母の誕生日に、彼のLPレコードをプレゼントしたりしているうちに、自分でもどんどん聴いて、好きになっていった。シンプルで覚えやすい、誰でもすぐに口ずさめる歌だったが、何回も何回も聴いているうちに、そのメロディーの向こうに漂う、形而上的哀しみみたいなものが、希薄に、でも鮮明に伝わってきた。しかし、私が、日本人的に、本当にそれを悲しいと思ってしまう瞬間、彼らは、カリブ海的に、明るく笑ってしまう。それで、その哀しみには、何か深い事情があって、簡単に泣いたり嘆いたり出来ないほど、悲しいのだろう、と、子供ながらに考えた。中学生くらいになると、それが、たとえば、黒人奴隷の心情を歌った歌である、ということが、少しわかってきた。
かつて、日本でもヒットした、“ Banana Boat ”(バナナ・ボート)。この歌の原題は、“ Day-O ”。Day-O, Day-O という始まりが聞こえると、強い太陽が昇ってくる、夜明けの感じがする。そして、強靭な陽射しがどうしようもなく照りつける前の、かなり崇高な雰囲気も漂う。日本でも、8月の暑い日の朝6時半頃には、すでに背中を照りつける太陽が痛いほど暑く、しかし一応、早朝のひんやり感も伴っている。そういう時、太陽というものは崇高なものだ、と感心したりするので、このDay-Oが聞こえてきた途端、私は、見たことのないバナナの産地の陽射しの強さを想像したのだろう。しかし、まだ子供だったから、単純にバナナを運ぶボートを想像して、何だか楽しい歌だと思っていた。美味しそうなバナナを満載した小舟が、コーヒー色の肌の男達に操られ、ジャングルを流れる緑っぽい川を下っていく図を描いていたのである。が、そのうち、それが、バナナ農園の夜明けの歌であることがわかってくる。さらには、夜中じゅう、バナナの収穫をしていた黒人奴隷が、「早く勘定してくれ、もう帰りたい」と歌っていることがわかってきた。このあたりで、学校で習ったばかりの、黒人奴隷が働くプランテーション、というものではないかと思い至り、子供なりに、歌の真意の深刻さに気づいたような覚えがある。
Day-O, Day-O
Day-light come and me want to go home
Work all night on a drink of rum
Day-light come and me want to go home
Come Mister tally man tally me banana
Dat-light come and me want to go home
という経緯(いきさつ)があったので、《バナナの倉庫》と聞いた途端、このDay-Oが聞こえてきたのだろう。小さい頃から好きだった、この歌の情景の中で収穫されたバナナの房は、もしかすると、大西洋を航海し、少しずつ緑色の衣を脱ぎながら、ナントまで到着したのかも知れない。
さてボーリュー島には、製糖工場(第9話 《西のベニス、奴隷貿易、そしてトラムウェイ》前編 の写真参照)も、稼動し続けている。18世紀中頃、ナントにはすでに22の製糖工場があり、サトウキビは、植民地からの輸入品全体の実に60%を占めていた。19世紀にも尚、海上貿易高の50%を砂糖に依存していたナントにとって、砂糖は、その経済発展の基幹産業だった。人口統計では、1801年にナントは僅か75,000人の人口にとどまっているので、製糖工場の数は並外れている。1813年に、やはり、植民地の代表的物産である綿花が価格暴落を起こし、それが意外にも、ナントにおける、砂糖の国際的大企業 Beghin Say = ベガン・セの誕生に繋がっていく。(次のシリーズで御紹介予定)
ところで綿花というと、私達はすぐ、Uncle Tom’s Cabin (アンクル・トムの小屋)みたいな、黒人奴隷の話を想い出す。昨年、NHKで制作した、北海道からブラジルに入植した移民のドラマでも、弾けた綿の実を摘んでいた。この話の中で、綿を収穫する時に、棘(とげ)が刺さって大変だということを知った。そして、黒人奴隷も大変だったのだろう、と考えた。ハリー・ベラフォンテも、<綿花の実が弾ける農園で、白い綿を収穫している黒人>を歌っている。“ Cotton Fields ” である。
When I was a little baby my mama would rock me in the cradle
In them there, old cotton fields at home
Now it might sound very funny but you didn’t very much money
In them there, old cotton fields at home
Oh when them cotton balls get rotten you can’t pick very much cotton
In them there, old cotton fields at home
I was down in Louisiana just a mile from Texarkana
In them there old cotton fields at home
綿花と聞いたら、すぐにこの歌が浮かんでくる。明るいメロディー・ラインを、ベラフォンテは、カリブ系のソフトなヴォイスで歌ってくれているから、楽しそうに聞こえる。実際、it might sound very funny と歌ってもいる。しかし、真っ白い綿花を集めながら、棘に刺された指先は、真っ赤に染まっているのだろう。植物の棘というのは、よく刺さって、かなり痛いものである。ウチワサボテンに、ちょっと刺されただけでも、しばらく痛いし、長い棘のある木瓜(ボケ)の枝の切った時、まとめてゴミに出せるように、適当に束ねるだけでも、かなりの苦行である。しかし、Cotton fieldsの労働者達は、綿花に刺されても刺されても、収穫し続けなければならない。しかもそれを、首からぶら下げたエプロンに集めるのだったら(ドラマの中の日本人移民は、こうやっていた)、綿だから、嵩張ると重くなっていくのだろう。ますます疲れてくる。しかし、この歌詞によれば、「綿花が腐ったら(おそらく収穫が遅れて)、沢山、穫れないから、ろくな収入にはならない。」そうだ。だから、いっぺんに開花する綿花を、大急ぎで収穫しなければならない。黒人奴隷もブラジル移民も、大変な労働を積み重ねてきたのだ、と、考えた。それでも、歌は明るい。短調でもない。その辺の強さがすごい。とにかく、毎日、堕ちこんでいたら生き残れないのだ。奴隷達は、来る日も来る日も奴隷だし、移民達は、毎日毎日が移民なのだ。アフリカから家畜のように連れてこられて、2度と故郷の村を見ることのない奴隷でも、一攫千金の夢を捨て、日本に帰る望みさえ諦めた移民でも、落ち込んでいるわけにはいかない。だから、歌っちゃう、のだろうか?この強さは、『ひょっこりひょうたんじま』(1964年から5年間、大ヒットしたNHK人形劇の子供番組)のテーマソングっぽい強さである。
丸い地球の水平線に 誰かがきっと待っている
苦しいこともあるだろうさ 悲しいこともあるだろさ
だけど僕らは挫けない 泣くのは嫌だ 笑っちゃおう
進めー ひょっこりひょうたんじーま ひょっこりひょうたんじーーーーまーーーー
同じ地球上に生まれながら、奴隷、移民という過酷な状況に置かれていく人々があり、内戦、政情不安、独裁政権など、様々な社会的不条理の中で苦悩し続ける人々もいる。一方、私は、敗戦後の日本が驚くべき速やかさで復興し、すでに安定し平和になった世の中に生まれてくることが出来ている。しかも、東京オリンピックの頃、まだ貧乏だった日本が、高度経済成長していく過程の、エネルギー溢れる空気を、自分の肌で感じるという、類稀な経験もして来れたのである。それだけでも自分は、もう、かなり幸せな状況の中で、大人になれたのだと認識すべき、気がしてきた。何しろ、今現在も、戦争や内戦下で苦悩する国や地域は、30いくつもあるそうだから、平和な日本に生まれてこられたという事実は、ものすごい偶然の成せる業である。だから、そういうシンプルな自分の幸運を、積極的に認識したほうがいい!のだろう。そうしないと、平和の意味も、その恩恵も、見えなくなってしまう。そうなった時が、1番危ない。62年護り続けてもらった平和を、危機にさらさないためにも、先ず、自分のいる環境のありがたみを考えよう、と思った。
こんな風に、《バナナの倉庫》を出発点とした、雑多な思索は、無数の寄り道を繰り返し、沢山の回り道を重ね、再び、夕暮れのボーリュー島に帰ってきた。海運都市ナントの過去に、ハリー・ベラフォンテの歌が重なり、映画『南太平洋』のBGMも聞こえてきた。ちょっと面白い、いろいろな偶然が、引込み線の線路を走って縦横(じゅうおう)に交錯し、歴史の映像の中に集結したようだった。もしかすると、言葉に言霊(ことだま)があるように、歌にも歌霊(うただま)というものがあり、Banana Boatという歌、Cotton Fieldsという歌、Bali Hiという歌に棲む何かが、奴隷貿易と新大陸の産物で潤い、《バナナの倉庫》なんかも設置しながら発展してきた西フランスの首都 = ナントに、長い歳月をかけて、私を誘導していったのかもしれない・・・。
ベラフォンテは、Creol (クレオル)語の歌も歌う。クレオル語とは、West Indies(西インド諸島)土着の人達が、交易相手のヨーロッパ人を相手に話す言語で、フランス語、イスパニア語、英語など、数ヶ国語で混成されている。で、彼のLPに、“ Merci Mon Dieu ”(メルシー・モン・デュー = 神様、ありがとう)という歌があった。歌詞の響きは、ほとんどフランス語っぽいのだが、意味は、ところどころしかわからない。クレオルとは、そういうものらしい。日本人が、東南アジアに日本人街を形成していた古い時代(=安土桃山時代)、オランダ船、イスパニア船、ポルトガル船と取引していた日本人達は、クレオル語みたいなもので交易していたのだろうか?その頃の日本人のほうが、現代よりずっとコスモポリタンな感覚を持ち合わせていたかもしれない。万葉の時代の大らかさと、鎖国以前の日本的大航海時代の国際感覚が、そのまま維持されながら近代日本に発展出来ていたら、何かが違ったかもしれない、と思ったりする。この、神経細やかで、器用で、仕事が早くて、間違わず、すべての分野で、高品質と高能率を維持する、時間厳守の国、日本に、鎖国以前の大胆さがあったら、21世紀の国際舞台でも、もうちょっと尊重されているだろう。いまだに何故か、欧米列強みたいな国と、エマージングな国の双方から、ごり押しを被ってしまうのは、どうしてだろうか?
こうして、私に多くを考えさせ、様々な検索を促し、3Dに回る奔放な瞑想も展開させてくれた〈バナナ雑考〉は、数多くのドキュメントを見出し、読み込み、消化して、貯蔵庫の棚に並んだ黄色い房のように、私の中の古文書庫に、満足そうに収まっていった。今日も、旧デュビジョン造船所の向こうに、オレンジ色の入り陽が沈んでいく。アンティーユ河岸は、水をたっぷり含んだ太い筆で夕暮れ色に塗られ、薄墨のように透明なチャコール・グレーの空気に、ボーリュー島の輪郭が滲んでいく。辺りは、だんだん暗くなり、だんだん黒くなり、かつては、その空気に溶け込んでしまったコンクリート色の倉庫も、今、陽の入りとともに、艶っぽい表情も豊かに、夜のカフェ群へと変貌していく。大きな蝶の羽化が、ゆっくりと、華麗に始まるように、アンティーユ河岸に連なる、18の金属の輪は、紅、緑、青の衣装を纏い始める。18世紀、海運都市として、その頂点を極めた街ナントを、今宵も、ロワールが横切っていく。川中に浮かぶ、旧い島の河岸が、都会の夜を彩るようなイルミネーションで輝き始める頃、ボーリュー島最西端は、ナントに全てをもたらした、黄金に輝く新大陸の方向を眺めながら、あでやかな蝶となり、ひっそりと暗いロワールの水面(みなも)に向かって、ゆっくりと羽ばたいた。
(mai 2008)
朝焼けに バナナ・ボートも 朱に染まり
青い果実は 海を越え行く
カモメ詠
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ボーリュー島最西端に西陽が傾いていく。トロントムー行きのナヴィバスの向こうに、クレーンが林立している。
夜のカフェ群へのメタモルフォーズを前に、ひっそりと夕刻を過ごすバナナの倉庫。
トロントムーから見た、アンティーユ河岸。ロワールの黒い水面に、ネオンが滲んでいく。
ジュール・ベルヌ博物館のある、聖アンヌの丘から眺めた、アンティーユ河岸。等間隔に並んだ、18の輪のイリュミネーションが、夕闇を染め始める頃、バナナの倉庫は、夜を纏う。
昼間は、アルミニウム系の軽い銀色で、引込み線と調和するように河岸を走る18の輪は、日の入りとともに、それぞれのカラーを放ち始め、夏の夜に光る昆虫のように、ボーリュー島の闇を彩っていく。
黒い闇が熱を帯び、海運都市時代の映像が、アンティーユ河岸に花開く。夜毎、夜毎、18の光の輪とともに現れ、夜明けとともに消えていく、18世紀の幻影に、ボーリュー島は、毎晩、溺れ、泥酔する。
ボーリュー島最西端が、あでやかな蝶となり、真っ暗な西に向かって羽ばたいていく頃、ふと、足元を見たら、何故か、バナナの皮が落ちていた。このシリーズの初め(22話)で、「バナナの溢れる頭の中で、そんなに急いだら、むいたばかりの皮を踏んで転んでしまう!自分で自分の夢想に蹴躓(けつまづ)き、空回りする。そんな図を想像しているうちに、1人で可笑しくなった。」と書いたが、ここで、この皮を踏んでいたら、5話分の夢想に蹴躓いてしまうことになったのだろうか?出来すぎたオチが、落ちていたみたい。事実は、小説よりも奇なり!か?
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