朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
スピード時代
2007.06エッセイ・リストbacknext

Bull 社が1951年に開発、発売したフランス初の
電子計算機のタビュレーター。
 日本でも「スピード結婚」というが、フランスでもspeed datingという英語が使われるらしい。「求愛者同士が数分を争って相互の気持をたしかめ、相互を評価しなければならないデートの仕方」という説明があるところからすると、ひろく一般に認知されてはいないようだが、ル・モンド紙(5月27-28日付)のコラムニストJ-M.Dumay氏は « Speed chronique »「スピード記事」と題するコラムを書いた。直接的には先頃の大統領選挙のマスコミ活動が念頭にあるのだろうが、速戦即決という報道姿勢が問題になっている。
 Une sorte de « speed dating »... où l’on irait à l’essentiel en deux phrases, entre chroniqueur et lecteur : ça vous plaît, ça ne vous plaît pas. Passons à autre chose...
「一種のスピード・デート...のようなもので、記者から読者へ、わずか2文で要点を伝えねばならない。これはお気に召しますか、これはお気に召しませんか。では、次に参りましょう」
 テレビニュースやインターネットのウエッブ・サイトはもちろんのこと、新聞・週刊誌の紙面であっても、何よりスピードが優先される事情は日本でも変わりはない。そこには現代社会の病弊が色濃く反映されているのであり、世界同時進行という意味でもう一つの「世界化」を痛感するが、興味深いのは、その現象を言いあらわすのにspeedという英語が登場した点である。試みに辞書をひいてみる。
speed:〖英〗〚話〛(語源が英語であること、話しコトバで、多少ともくだけた表現であることを示す)
語義として、男性名詞で「アンフェタミン、LSD」, 無変化の形容詞として「①アンフェタミンを含んだ.②ひどくせかせかした. (ディコ仏和辞典)
speeder :( de l’angl. speed ,vitesse) Fam Se dépêcher(急ぐ),foncer(突っ走る) (プチ・ラル-ス辞典 ; なお、Fam は語の水準を示す記号で、上記ディコの〚話〛に相当する)
 vitesseという単語があるのに、ことさら英語を用いると、いささかpéjoratif(軽蔑的)なニュアンスがにじみでることを否めない。「スピード優先」は世界共通の傾向であるのに、なぜか英語だけにその責めが負わされてしまう恰好になる。
 ついでにいうと、テレビのチャンネルをリモコンで忙しなく変えることを英語ではto channel-flickというようだが(Oxford-Hachette French Dictinary)、フランスでは米語のto zapを輸入して、zapperとかzappingという新語を作ってしまった。
 上記のコラムには、このあと情報学の専門家Ayache氏の見解が紹介されているのだが、そこにもキーワードとしてzapperが出てくることに注目しよう。
  L’homme d’aujourd’hui est un être bondissant d’un espace à un autre, d’un événement à un autre, d’un être à l’autre. Surfant sur les résaux d’information, zappant le réel d’une pression de télécommande, il devient un spectre qui refuse la durée. Son temps progressivement se morcelle et se rétracte en suite discontinue d’instants, de « temps réels», sa mort n’étant qu’un instant ultime.(下線は朝比奈)
「現代人は空間から空間へ、事件から事件へ、人から人へ、飛び移っていく存在である。ネット・サーフィンをしつつ、リモコン操作ひとつで現実のチャンネルをせわしなく変えつつ、彼は亡霊と化し、持続を拒む。彼の時間はだんだんに細分化され収縮される結果、瞬間それも<現実の時間>なのに切れ切れの瞬間の連鎖になってしまい、彼の死はただの最後の瞬間でしかなくなる」
 日本では未成年者の殺人事件があいついでいるが、こじつけを覚悟でいうなら、犯人とされる少年たちには<現実>が見えていないのだろう。テレビやパソコンの画面をのぞき「ネット・サーフィン」や「ザッピング」をするうちに、ただただ時間だけが自分の前を過ぎていく。そんな<亡霊>にひとしい感覚で行為に走ったのではないか。Ayache氏が指摘するように、人類は新しい未知の時代に突入した。彼らはそこへ折悪しく生をうけてしまった。そんな新世代に対する施策に窮し、今の政治家たちは「愛国心の重要さ」を呪文のように繰り返す。彼らの発想はいかにも見当はずれだと思うのだが、それはまた別の話題だ。ここではコラムの中で批判されている「討論会」(カトリック系の日刊紙La Croix「十字架」5月24日付け、がレポートした)の方にzappingしよう。

日刊紙La Croix「十字架」
  選挙民と候補者が15ないし20人の小グループを組んで、なごやかな集会を開く。心を通わせて、相互理解を深めるというのが趣旨で、主催者は強調する。
 Avec ce débat modernisé, nous voulons remettre au coeur de la cité la véritable démocratie.
「この近代版討論会により、われわれは都会の中心に真の民主主義を再興させたいのです」
 こうすれば政治集会になじみのない若者も集まってくれるだろうというのだ。ここまではコラムニストも賛成する。ただ、主催者が自画自賛する「近代版」には疑問を投げかける。実態は、候補者の発言時間を15分に制限するというものにすぎないからだ。コラムニストは、そんな切り詰められた時間内では、聴衆は何を基に判断すればいいのか、と問い返す。そんな討論会で物をいうのは理性la raisonや言説le discoursの力ではなく、個人の心理的傾向やその時々の雰囲気ではないのか。選挙民と候補者との政治的な絆は、そんな瞬間的なものではなく、持続や誓約に支えられねばならない、と彼はいうのである。「スピード時代」と題するコラムの論旨からして、彼の主張はまことに正しい。この種の集会こそ、もっと時間にゆたりをもたせるべきだし、話す者も聞く者も熟慮を重ねるべきなのである。
 ただコラムニストの批判は尤もだと認めた上で、フランスから日本に目を転じた時、わたしは首をかしげてしまう。フランスでも政治集会になじめない若者がふえていることを知って、日本も変わりはないと思う。だが、その一方、政党以外は選挙集会を開けない仕組みの日本では、この制限時間つきの「近代版」でさえ、開催できれば民主主義への前進になるのではないか、と羨ましい思いに駆られる。まもなく国政選挙の機会が訪れ、わたしの周辺は例の「...をよろしくお願いします」という連呼の声で覆われるだろう。あれだけは、「スピード時代」の深まりにもかかわらず、旧態依然としているのはどうしたことか。
 もう一度コラムにもどる。その末尾はこうなっている。わたしもその流儀にならうとしよう。
 Ça ne vous concerne vraiment pas ? D’accord. Eh bien, passons à autre chose.
  「この話、あなたにはほんとうに関係ないんですか?よろしい、では別の話題に移りましょう」
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