朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
年の瀬をこえる(1) 2008.12エッセイ・リストbacknext
 「年の瀬」あるいは「年末」、どっちにせよフランス語ではla fin de l’année(英the year-end)というしかない。今年は100年に一度といわれる世界的な経済危機のなか、賃金格差disparité des salairesが年越しpassage de l’année à l’autreの難易をいちだんと際立たせるように思う。しかし、そんなことお構いなしに年末の町は特別な賑わいに包まれる。それにつけてわたしが思い起こすのはAndersen作の物語「マッチ売りの少女」だ。大晦日の晩、雪の街頭でマッチを売る少女の話はあまりにも有名だが、今度なにげなくWikipédiaをのぞいて見て気づいたことがある。

「マッチ売りの少女」の挿絵
 一つは訳名のこと。仏訳はLa Petite Fille aux allumettes。これに対し英訳名はThe Little Match Girlで、いたって簡単。因みに、ドイツ語ではDas kleine Mädchen mit den Schwefelhölzchenという。肝心のデンマーク語についてはまったく無知なのだが、Den Lille Pige Med Svovlstikkerneとあるからには、どちらも前置詞がついていることにかわりない。そうなると、「売り」を補った邦訳名の場合もふくめて、英語がずばぬけて簡潔なことがわかる(それだけ融通がきくということか?)。この言語が世界を制覇する原因はここらあたりにもあるのかしら。
  もう一つは、当たり前かもしれぬが、Wikipédiaの記事にお国柄が出るということ。といって、各国語に通じているわけもなし、この場で話をひろげるのも煩わしいので、日英仏3バージョンに限る。作者や刊行年の紹介のあと、粗筋が出てくるところまでは共通しているのだが、その先が違う。英語版がいちばん長い。ただ、その半分以上のスペースは原作そっちのけでAdaptationsすなわち、オペラ、映画やテレビ、あるいは歌曲などへの翻案の紹介にあてられている。日本語版もそれに近いが、もっと短く、しかもアニメや漫画、ゲームソフト関連の紹介にまで及んでいる。対照的なのは仏語版で、半分はAnalyse、つまり作品内容の分析・検討の記事で埋まっている。面白いので、その一部を紹介する。
 最大の驚きは「十九世紀の貧困をかなり辛辣に描出している」として、わたしたちにはただの「童話」にすぎないこの物語の奥に潜む、二つの世界の対立を暴き出していること。
 二つのうちの一方はle monde de la richesse et de l’opulence「富と贅沢の世界」だ。
:l’histoire se passe lors du réveillon de la Saint-Sylvestre et on évoque les lumières aux fenêtres, la chaleur d’un poêle décoré,le repas délicieux(« oie rôtie, farcie de pruneaux et de pommes ») et le sapin de Noël.
 「すなわち事件は年越しパーティの時におこるのであって、そこで窓の明かり、飾りの派手なストーブの熱気、おいしい御馳走(「アンズやリンゴを詰めたガチョウのロースト」)やクリスマス・ツリーが描き出される。」
 これに対するのはle monde de la misère personnifiée par une petite fille seule, perdue「見捨てられて独りぽっちの少女に具現化された貧困の世界」だ。
 qui a faim et froid, maltraitée par son père et ne portant que des vêtements usés.「彼女は飢えて凍え、父親に虐待され、身につけるものとてはボロばかりだ。」
 少女がマッチをする(こすれば着火する黄燐マッチの発明は1831年のこと)たびに浮かび上がる情景は、この読み方にしたがえば、彼女ひとりの空想の幻影ではなくて、彼女がうずくまる壁の向こう側に現に存在しているレヴェイヨンの実態をありのままに映したものにほかならない。なるほど指摘されてみればその通りで、壁一枚を隔てて、二つの世界がきびしく対立しているのだ。しかも、作品の中に対立構造をかぎつける嗅覚はここでとどまりはしない。le père rigide「厳格一本槍の父親」とla vieille grand-mère attentive à ses petits-enfants「孫たちの世話を焼くおばあちゃん」との間にも、Lorsqu’une étoile tombe, c’est qu’une âme monte à Dieu「星が一つ落ちるたび、魂が一つ神のみもとに上るのだ」、つまり落ちてくる星と神のもとに上る魂との間にも、作者が仕組んだ二項対立を読み取らずにはいない。物語はまさにそのために作られた、というわけだ。

アンデルセン[1805-1875]
 アンデルセンの作品はこんな風に読むものなのか、呆気にとられてしまう。わたしたち日本人は、物語を、特にアンデルセンの物語をとかく情緒的、感傷的に受けとめがちだ。たとえば、「みにくいアヒルの子」Le Vilain Petit Canard(英、The Ugly Duckling)の場合、わたしたちは頭からイジメの話と決めつけて、仲間はずれにされる醜い子の身になりかわって泣いたりおびえたりし、それで分かった気になっていやしないだろうか。
 ところが、あのアヒルの母親が「世の中って、すごく大きいんだなあ!」という子供たちに向かって「おまえたちは、これが、世の中のぜんぶだとでも思っているのかい?世の中っていうのはね、このお庭のむこうのはしをこえて、まだまだずうっと遠くの、牧師さんの畑のほうまで、ひろがっているんだよ。」とたしなめるところがある。結局はこの母親自体、世界の広さ、深さを見誤っていることが分かるという仕掛けだが、こんな些細なやりとり一つとっても、原作者の狙いが単なる異分子排斥の話ではなく、もっと広く深い世界に開かれていることが察せられるのではないか。
 情緒的、感傷的にすぎる日本人と対照的なのが、フランス人の読み方だ。彼らの立場で考えれば、この分析的、理性的な読み方は小学生の段階から長年のあいだに培われて、もはや習性と呼ぶのがふさわしいほど頭や心にしみついている。その分析癖が「マッチ売りの少女」の場合だけ眠りこけるはずもなく、Wikipédiaのサイトにも当たり前のように反映されただけのことなのである。
 飛躍するようだが、フランス象徴派の詩人Baudelaireに散文詩集Le spleen de Paris『パリの憂鬱』がある。1865年の刊行で、1845年末に発表された「マッチ売りの少女」よりは20年近くも新しいことになるが、雰囲気が不思議に似通っている作品が散見する。次回は来年正月のことになるが、ボードレールを引き合いにだして、越年の感想を綴りたいと考えている。


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