朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
年の瀬をこえる(2) 2009.1エッセイ・リストbacknext
 「マッチ売りの少女」に似た作品として、『パリの憂鬱』中からUn plaisant「剽軽(ひょうきん)者」(すこし古めかしいが、三好達治以来、この訳語で知られている)を取り出そう。コペンハーゲンとパリ、大晦日と新年早々との違いはあるが、街頭の賑わいをバックにしているせいで、よく似ている感じがする。もっとも、ここに登場するのは少女ではなくて、ロバだ。

ボードレールの自画像
 Au milieu de ce tohu-bohu et de ce vacarme, un âne trottait vivement, harcelé par un malotru armé d'un fouet.
  「この雑踏と喧噪のまっただなかを、1頭のロバが早足で駆けていた、鞭をにぎる荒くれ男に急きたてられて。」
 話を先にすすめるまえに、詩人ボードレールが使った語について一言。tohu-bohuはラテン語、その前はヘブライ語にまでさかのぼる語で、元来は旧約聖書の「創世記」1章2節、TOB訳ではLa terre était déserte et vide(新共同訳では「地は混沌であって」)、そのうちの「混沌」をさした。それがボードレールの頃に「ものの雑然たる状態」を経て、「雑多な騒音」を意味するようになった。つづくvacarmeはオランダ語起源で、もともとは「罵り声;口論や大はしゃぎの声」をさしたが、十九世紀後半にいたって「(トラックや削岩機など)耳を聾するような騒音」を指すようになった。René Clairの名画Les Belles de Nuit(夜ごとの美女)でGérard Philippeの夢を覚ました道路工事のドリルの音を思い出す。上の訳文ではとりあえず「雑踏と喧噪」とした。当たらずといえども遠からずだと思うが、原語の方はいずれも近代の都市化・産業化の進行にともなって単語に新しい語義を加えたことになる。いま21世紀の大都会ではそれがさらにボリューム・アップし、冗談めかしていえば、わたしたちを世界創造前の「混沌」に送り返したわけだ。それはさておき、この2語を続けざまに用いた詩人は正月のパリの騒々しさに少なからぬ抵抗を感じていたに相違ない。
 上の引用にもどろう。登場したのはロバだけれど、周囲のお祭り騒ぎをよそに働かされ、しかも後ろにはmalotru(goujat, mufle, rustreなどとならんで、無教養で粗暴な男を指す)が睨みをきかせていることを考えると、「マッチ売りの少女」と同じ境遇にあるといってよい。前号の論法を援用すれば、ロバは幸せに恵まれて浮かれる金持ち連中とは反対側の、孤独な境涯に突き落とされた貧者に限りなく近い位置にいる。
 Comme l'âne allait tourner l'angle d'un trottoir, un beau monsieur ganté, verni, cruellement cravaté et emprisonné dans des habits tout neufs, s'inclina cérémonieusement devant l'humble bête, et lui dit, en ôtant son chapeau : « Je vous la souhaite bonne et heureuse ! » puis se retourna vers je ne sais quels camarades avec un air de fatuité, comme pour les prier d'ajouter leur approbation à son contentement.
 「ロバが歩道の角を曲がろうとした時、手袋をはめ、ピカピカにめかしこみ、ネクタイをきつく締め、新調の服に窮屈に身をつつんだ立派な紳士が、このみすぼらしい動物の前でうやうやしく身をかがめ、帽子をとって、「明けましておめでとうございます!」と言った。それから誰やら友人らしい者たちの方へ得々とした様子で振り向いた。まるで、自分の満足にあき足らず、その上さらに彼らに褒めてほしいと頼むかのように。」
 ここでも言葉遣いについてコメントする。verni:元来は動詞vernir「ニスを塗る」の過去分詞で、souliers vernis「エナメル靴」のように使う。この紳士もエナメル靴を履いていた可能性は高いが、直接monsieurにかかっているのでtiré à quatre épingles「めかしこんで」の意味と取るしかない。原語に配慮して「ピカピカに」を添えた阿倍良雄訳にならってみた。cruellemennt とemprisonnéの2語には、服飾によって世間の注目を引こうと懸命なbourgeois「ブルジョワ、中産階級の人」に対するボードレール一流の敵意が色濃くにじんでいる。当人は、むろん、ネクタイをきつく締めるのはただ流行に従っただけのこと、いささかも「窮屈だ」とは思っていないだろう。emprisonnerは「投獄する、自由を奪う」を意味するが、当の「紳士」はむしろ得々として(avec un air de fatuité)大道を闊歩しているのだから笑ってしまう。

車を引くロバ
 こうして、紳士に関する微に入り細をうがった、しかも漫画的で皮肉たっぷりの描写を見てきたあとで、ロバという名詞につけられたのは「みすぼらしい」というわずか1語の形容詞にすぎない。このコントラストに注目したい。くどいようだが、ロバを「マッチ売りの少女」に重ねるとすれば、このmonsieurこそ、まさに「明るく暖かい部屋の中で何の屈託もなく御馳走を食べている」ブルジョワ連中の立場を代表していると見るしかない。 このplaisantの丁重な挨拶に対し、ロバはどう対応したか。彼はそれをあっさり無視して、où l’appelait son devoir「自分の義務が呼ぶ方へと」走り続ける。この街頭風景を目撃した詩人は、短い散文詩をつぎのように締めくくる。
 Pour moi, je fus pris subitement d’une incommensurable rage contre ce magnifique imbécile, qui me parut concentrer en lui tout l'esprit de la France.
 「私の方は、矢庭にこの大バカ者にたいする限りない憤りに襲われたが、思えば、この男の中にこそ、フランスのエスプリの一切が凝縮しているのだった」
 incommensurableはcommensurable「通約できる」という数学用語の派生語だが、それに否定の接頭辞のついたincommensurableは「測り知れない」という意味の語として普通に使われる。ただ、ここではrageの激しさを強調する語として他のいかなるコトバにもまさるインパクトを持っているように思える。imbécile(むろんplaisantと同一人物)の前にある形容詞magnifiqueは英語のmagnificent, splendidに相当し、本来は最高の褒め言葉にこそふさわしい形容詞なのだが、この場合のように名詞の前に来ると、逆に最高の皮肉になることに注意しよう。これらincommensurableとmagnifique2語が競合して、ボードレールがこの一篇に込めようとしたブルジョワへの怒りの強度をいやが上にも高めている。この辺が散文詩の見どころだろう。
 ところで、いうまでもないことだが、âneを辞書で引けば、動物の種の名であるほか、bête,idiot, ignorant,imbécileの類語とされている。とすれば、この剽軽者はその「ロバ」にわざわざ帽子を脱いで「おめでとう」を言ったわけだ。この逆説めいた行動で、彼としては最高にエスプリを利かしたつもりだろう。ところが、抜け目なく機敏に立ち回り、大向こうの受けをねらったつもりで、その実、自分の冗談に有頂天になり、相手への思いやりばかりか、己の愚かしさへの認識を欠いた結果、何とロバに<シカト>されてしまった。この一瞬のすれ違いのなかに、詩人は同胞に共通するメンタリティの欠陥を洞察したことになる。
 第三共和政、ナポレオン三世治下のフランスに生きたボードレールは同時代人の愚かさを告発しつづけた。『パリの憂鬱』はそういう呪いの凝縮といってもいい作品だが、経済不況のなかで貧富の差が拡大の一歩をたどる今日、幸せいっぱいに暮らしている皆さんに読んでみることを勧めたい気がする。わたしたち自身のなかにも知らず知らずのうちに時代への反感が鬱積しているだろう。ことによると、ボードレールが己の意識の奥底に道をつけてくれるかもしれない。

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