朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
オバマ演説に学ぶ(2) 2009.3エッセイ・リストbacknext
 前回「二項立て」をとりあげると予告した。演説の中に例がたくさん見つかるからだった。念のため、もう一つだけ別の例をあげると、こんな具合である。以下に、原文、ル・モンド紙の仏訳、朝日新聞の和訳の順にあげる。(下線、斜字の指示は朝比奈)
▶Our economy is badly weakened, a consequence of greed and irresponsibility on the part of some, but also our collective failure to make hard choices and prepare the nation for a new age.
▶Notre économie est fortement affaiblie, conséquence de la rapacité et de l’irresponsabilité dont ont fait preuve certains, à cause également de notre incapacité collective à faire des choix difficiles et à préparer la nation à une nouvelle ère.
▶「経済はひどく疲弊している。それは一部の者の強欲と無責任の結果だが、私たちが全体として、困難な選択を行って新しい時代に備えることができなかった結果でもある。」
 二つの名詞:「強欲」と「無責任」、二つの不定詞:「困難な選択を行う」と「国民に新時代に向けた心構えをさせる」という二項立てはもちろんだが、それだけでなく、二つの下線部がそれぞれ一塊となり、両方が「経済疲弊」の原因だという論理構成である。さらにつけ加えるなら、「一部の」と「全体として」との間にも対比の意図が窺える。要するに、上の文は「二項立て」尽くめといってよい。これは何としたことか?ここまで徹底しているからには、もはやただの列挙énumérationではない。演説者はどうやらある修辞法、つまり両方を比較しつつ際立たせる対照法antithèseにこだわっていると見るべきだろう。そうとわかれば、演説を読む興味がまた一つふえるというものではないか。

白居易
 ところで、対照法とは何か?私たちにもなじみの文彩、「父の恩は山よりも高く、母の徳は海よりも深し」という、アレである。漢文はこのレトリックを多用する。一例をあげれば、白居易Bai Juyi(772-846)の名高い『長恨歌』Chant des regrets éternelsに出てくる「天に在っては願わくは比翼の鳥(雌雄並んで飛ぶ鳥)とならん、地に在っては願わくは連理の枝(枝と枝とが一つに合体した木)とならん」(カナ遣いは岩波文庫の表記に従う)という対句。要するに不滅の愛の誓なのだが、これなど対照法の典型だろう。
 それにしても、オバマ大統領と漢文とはなじまないという人がいるかもしれない。それなら、前回も述べたように、彼の人格形成に深く関わったと思える旧約聖書を引き合いに出そう。これまた日本でもよく知られる「詩篇121」の一節である。

  「主はあなたを見守る方
 あなたを覆う蔭、あなたの右にいます方
 昼、太陽はあなたを撃つことがなく
 夜、月もあなたを撃つことがない」(新共同訳)
 Yahvé est ton gardien, ton ombrage,
  Yahvé, à ta droite,
 De jour, le soleil ne te frappe,
  ni la lune en la nuit. (Jérusalem版)

  オバマ演説の基調をなしているのは、この文彩なのである。彼がこれを愛用する理由はいろいろ考えられる。まず、眼前はもとよりテレビカメラの向こうでも待ち構えている聴衆に与えるインパクトの強さだ。文字を読む者の場合も中身の理解が一段と深まるだろう。それに、口調がよくメリハリもきいているから、それに釣られて私のように英語が苦手な外国人でさえ口ずさみたくなる。となれば、弁舌の力で味方をふやしたいと願う大統領には打ってつけの修辞法だと言わねばならない。
 しかも興味深いのは、対照法が目覚ましい効果を発揮しているのは、上記のような類似表現の場合もさることながら、それ以上に、両者の差異を強調するケースだということである。例をあげよう。
▶On this day, we gather because we have chosen hope over fear, unity of purpose over conflict and discord. On this day, we come to proclaim an end (1)to the petty grievances and false promises, the recriminations and worn-out dogmas that for far too long have strangled our politics.(2)
▶En ce jour, nous sommes réunis parce que nous avons préféré l’espoir à la crainte, l’union au conflit et à la dissension. En ce jour, nous sommes venus proclamer la fin(1) des doléances mesquines et des fausses promesses, des récriminations et des dogmes usés qui, pendant beaucoup trop longtemps, ont étouffé notre politique.(2)
▶「今日、私たちは恐怖より希望を、対立と不和より目的を共有することを選び、ここに集まった。今日、私たちは、長らく我が国の政治の首を絞めてきた、狭量な不満や口約束、非難や古びた教義を終わらせると宣言する。」
 この例の前半は「恐怖」「対立・不和」と「希望」「目的の一本化」とが対比された上で、前者が捨てられ、後者が選ばれる。まさに対照法本来の姿といえよう。ところが、後半はどうか。一見したところ動詞と目的語が向き合うにすぎないからだ。しかし立ち入ってみると、下線部(1)は断固たる決意を示す動詞であるのに対し、下線部(2)は「あまりにも長すぎる間」(朝日訳では弱すぎる!)に積み重なったブッシュ政権の悪弊を列挙し酷評する内容の目的語である。(1)と(2)の両者が向き合う、その落差こそ見事な対照法の成果ではないか。隔たりの大きさがそのまま旧から新への転換の意義深さを示すというわけだ。



Mitterrand元大統領

 話は飛ぶが、この演説のあいだ、終始前方を向き、表情たっぷりに語りかける一方、原稿に目を落とす気配がないことに感銘を受けた。麻生首相はこの新大統領と会見し帰国後に国会で報告したが、手にした原稿を棒読みするだけ。これには落胆する一方、両者の対照に衝撃を受けた。聞き手としては、自分の方を見て話してほしいと思うのが当然だろう。
 昔、フランスの大統領選挙戦にテレビがはじめて本格的に登場した時のことを思い出す。現職のGiscard d’Estaing氏にMitterrand氏が挑戦したのだが、テレビ討論の間、どちらが何回原稿に目を落としたかが、翌日の新聞で早速話題になった。Mitterrand氏は前を向き通しだったと評判になり、それがそのまま選挙での勝利につながった。
 麻生氏もオバマ大統領に倣って「対照法」をどしどしスピーチに取り込んだらどうだろう。それを暗記して議場に臨んだら、人気がぐんと上向くのではないか。もっとも、漢字の読み違いで失笑を買ったくらいの人だから、どだい無理な注文かもしれぬが。

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