朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
ワールド・カップの教訓 2010.7エッセイ・リストbacknext

「二羽のオンドリ」
作者生前最後の版に添えられた挿絵

 サッカーの世界大会で、フランスとイタリアが早々と姿を消した。前回の1,2位チーム敗退というのは醜態だが、その背景には、若がえり策の失敗があったことは素人目にも明らかだろう。そこで思い起こされるのは、La Fontaineの1句である。
 Tout vainqueur insolent à sa perte travaille.
 「傲慢な勝利者はみなわが身の破滅をはやめる」(今野一雄訳)
 これは諺にもなっているようだが、元来は、メンドリの愛をかち取って有頂天になっていたオンドリがハゲタカに襲われて一命を落とし、恋に敗れたはずの競争相手の方がメンドリをものにするというLes Deux Coqs「二羽のオンドリ」(巻の7、12)の終りに出てくる。詩人はその後をこう締めくくる。
 Défions-nous du sort, et prenons garde à nous,
 Après le gain d'une bataille.
 「運命に心を許すまい、そして、警戒を怠るまい、  
  戦いに勝利を得たのちに」(同上)
  両強国とは対照的に、善戦した日本チームは評判がいい。それは嬉しいのだが、気になるのは試合につれて団結心の価値が急騰していく風潮である。むろん団体スポーツでは団結solidaritéや献身dévotionが重視されて当然だろうが、日本のマスコミの論調には、過度に自己犠牲sacrifice de soiや全員一致consentement unanimeを賛美する気配が感じられ、太平洋戦争前の日本を知るわたしなどは危惧を感じないわけにはいかない。
 その矢先だったから、6月21日夜のLe Mondeのウエッブ・サイトに載ったVikash Dhorasooの « C'est la lutte finale ? »「これが最終戦か?」と題する爆弾発言には度肝を抜かれた。フランスは1敗1分けのあと、選手が練習をボイコットしてストライキを構えたという報道があり、翌日にひかえた南アフリカとのゲームもまた形勢がすこぶる悪かった。ドラソーは4年前のドイツ大会のフランス代表だ。ケガのせいもあるにせよ物議をかもしてサッカー界を引退したあとは、映画や記事を通して、内部告発の機会を窺っているジャーナリストだから、記事は過激になる。しかも、ブログを誘いだす意味でことさらラジカルなトーンを選んだのかもしれない。それにしても、ここまで突っ込んだことを書くこと、書けることにわたしは呆れるとともに感動もした。
 第一に、フランスでサッカー選手になるのがどんな社会階層の人間であるか、それをあけすけに暴露してみせた点である。
 L'heure du bilan pour une équipe Black-Blanc-Beur aussi vantée qu’imaginaire.
 C'était donc le moment de montrer au monde entier qu'une « banlieusards », de « caillera », de mecs du ghetto pouvait tout éclater en Afrique du Sud.
 「呼び声が高いが、イメージ上の<ブラック・ホワイト・マグレブ>混成チームの総決算の時が来たのだ。今こそ全世界に向かって、<郊外族><下層民>、ゲットー野郎の混成チームが南アフリカですべてを爆発させうる時が来たのだ」
Vikash Dhorasoo
 選手の肌色による三色旗のパロディだが、民族融和の象徴と受けとめられている。その欺瞞性を突いた格好だ。因みにBeur, cailleraはverlan「逆さ言葉」で、それぞれrebeu(「アラブ」「マグレブ移民の子」)、racaille(「下層民、社会のくず」)を意味する卑語。
 さらに別の箇所にはこんな記述が出てくる。
 Ils sont issus de quartiers populaires, assez souvent désoeuvrés. On les sort de la réalité à l'âge 12–13 ans pour les mettre dans des centres de formation et les formater, à l'âge où un jeune normal vit encore chez ses parents, tous les soirs bordé par sa mère.
 Ils réapparaissent ainsi à l’âge adulte, complètement coupés du monde réel.
 「彼らはたいていは仕事にあぶれた庶民の町の出身だ。12, 3歳のころ現実を出て訓練センターに入れられ、普通の若者がまだ親元で暮らし、毎晩母親に付き添われている時分からサッカーを仕込まれる。そうやって成人のころに[代表として]再登場するわけだが、現実世界からは完全に隔離されたままだ」
 因みに、formaterは本来はPC用語で「フォーマットする」の意味だが、ここでは「サッカーのフォーメーションを叩きこまれる」の意味にちがいない。
 出身階層がこうだとい う前提に立っているから、筆者は「代表」チームに寄せるフランス国民の期待感を一刀両断に切り捨てて憚らない。
 Les footballeurs ne sont pas des professionnels de la représetation nationale. Ils n'ont aucune obligation à être des exemples pour les plus jeunes, ils n'ont aucune obligation à se battre pour l'honneur de la nation.
「サッカー選手は国家代表のプロではない。若者の模範にならねばならぬ義務をいささかも負っているわけではないし、国の名誉のために戦わねばならぬ義務をいささかも負っているわけではない」
 日本のマスコミであれば、どうだろう。サッカー選手はまさに国の代表として選ばれたという認識が大前提だから、彼らは代表にふさわしいプレーに徹するべき「義務」を脊負っている。選ばれた以上は、若者の模範になるのは当然であって、身なりや言動の端々にまで注意をはらう「義務」がある。しかも、全国民の名誉のために戦わねばならないのであって、一瞬の緩みも許されない立場にある。マスコミの関係者はもちろん、テレビや新聞を見たり読んだりする一般大衆の側もついそう思い込まされているのではないか。
 むろん、フランスと日本を同日に論じることはできない。まして、être qualifié「決勝トーナメントへの出場資格を得る」ことのできた日本に対し、フランスはêtre éliminé「振り落とされる」憂き目にあった。わたしとしては、日本の現状を是認するわけではないが、フランスの現状を見逃すことの方がもっと難しいと思う。
 上の記事に従うかぎり、フランス国民は代表選手に対して大きな負い目を感じてしかるべきだろう。ましてや、彼らに国の代表として振舞う義務を強要できる立場にないことはあきらかだ。敗因の追求は長く深刻な論争を呼ぶことが予想される。しんどい時期が続くだろうが、それ抜きには、フランス・サッカーの黄金時代は二度と訪れまい。
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