朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
リスボン大地震(その3) 2011.07エッセイ・リストbacknext

保苅氏の著書の表紙
 パングロスはこの上なく丁寧に答えた。相手を二人称ではなく、三人称で呼んでいることに注意。
 Excellenceは大使や、ローマ教会の大司教のような高位聖職者に対する尊称。君主に対するvotre Majesté「陛下」と同じ用法だ。この場合は宗教裁判所のfamilier(「取締官」と訳してあるが、具体的にはスペインでl’Inquisition「異端審問」の容疑者逮捕を任務としていた)で、うさんくさい輩だが、慇懃さを示す意味で、ことさら「猊下」を用いたのだろう。
 ---Je demande très humblement pardon à Votre Excellence, répondit Pangloss encore plus poliment, car la chute de l'homme et la malédiction entraient nécessairement dans le meilleur des mondes possibles.
 「恐れながら猊下(げいか)」と、パングロスはさらに丁重な態度で答えた。「なんとなれば、人間の堕落と呪いは、およそありとあらゆる世界の中の最善の世界に必然的に含まれていたからでございます」(植田祐次訳)
 彼としてはあくまで自説の正しさを誇るつもりで答えたのだろうが、相手が悪かった。この頭の固い哲学者は丸暗記の呪文を唱えるように「人間の原罪と断罪は最初から必然的に決められていた」と主張したが、ともすれば、それは「救霊予定説」prédestinationと呼ばれるCalvinのキリスト教神学(つまり新教)と重なってしまう。キリスト教徒にとって、原罪にけがれた人間の魂は神の恩寵がなければ救われないことはもちろんだが、旧教側は、恩寵のみならず、救われたいという人間の自由意志をも重視する。対するパングロスの主張は、上のコトバで理解するかぎりは、人間の「自由」が入りこむ余地を認めない、いいかえれば、新教徒の思想、異端思想を臆することなく述べたことになる。取締官は色めきたった。
 --- Monsieur ne croit donc pas à la liberté ? dit le familier. --- Votre Excellence m'excusera, dit Pangloss ; la liberté peut subsister avec la nécessité absolue : car il était nécessaire que nous fussions libres ; car enfin la volonté déterminée...(イタリックの指示は朝比奈)
 対話でありながら、双方ともに三人称を用いているところが面白い。取締官の使う三人称は相手を見下す用法だ。他方、パングロスの三人称は前の文と同様にへりくだりの気持を示す。イタリックのところ、動詞もまた三人称である点に注目したい。
 「では、ムッシューは自由を信じておられないのですか」と、取締官は言った。
「はばかりながら猊下」と、パングロスは言った。「自由は絶対的必然と両立しうるのでございます。なんとなれば、われわれが自由であるのは必然であったからでございます。なんとなれば、要するに断固たる意志は...」
 彼のいう「絶対的必然」を自然科学の法則に置きかえて考えればよい。必然に捕らえられた人間がどこまで自由に振舞えるか、これは現代にも通じる哲学的な課題だろう。その意味では、パングロスがいうことはけっして屁理屈ではない。しかし、異端的な言葉尻だけを狙っている取締官の耳には、自分の誤りをごまかすための強弁としか聞こえなかった。結局、彼は逮捕されたばかりか、異端者として処刑されてしまうのである。
 Après le tremblement de terre qui avait détruit les trois quarts de Lisbonne, les sages du pays n'avaient pas trouvé un moyen plus efficace pour prévenir une ruine totale que de donner au peuple un bel auto-da-fé ; il était décidé par l'université de Coïmbre que le spectacle de quelques personnes brûlées à petit feu, en grande cérémonie, est un secret infaillible pour empêcher la terre de trembler. (Chapitre Sixième)(太字の指示は朝比奈)

火刑の木版画、魔女から悪魔を追い出す。16世紀ニュールンベルク。

 auto-da-féは現代語ではautodaféと一語となり、「(1)焚書。(2)(宗教裁判所の)判決宣言;(異端者に対する)火刑、処刑」を意味するが、元来はポルトガル語のauto da fé(autoは「行為、演技」féは「信仰」)から来ていて、「異端審問の法廷で異端者にくわえられる拷問」を意味した。ロベールのフランス語歴史辞典によれば、この語を好んで用いたのがVoltaireだった。
「リスボンの町の四分の三を破壊した地震の後、この国の賢者たちは、完全な破滅を防ぐのに、民衆に異端者の華麗な火刑を見せる以上に効果的な方法を見つけられなかった。数人の人間がとろ火で厳かに焼かれる情景は、大地の震動を防ぐのにかならず効き目のある秘策である、とコインブラの大学が決定していた。」(第六章)
 この受刑者の中にわが主人公たちが加えられたのだ。現に火刑に処せられた者もいたが、さいわい、パングロスは絞首刑、カンディードは尻叩きの刑ですんだ、という落ちがついている。
 この展開を紹介した上でいうのだが、Voltaireは別の書物の中で、大地震の翌年1756年6月20日に問題のautodaféが行われたと記している。つまり、単なる作り話ではないことになる。ただ、これには異論がある。地震のあとにポルトガルで少なくとも3度のautodaféがあったことは事実だが、実際には地震と関連づけられたわけではなかったし、刑罰も火刑ではなく、厳重説諭にとどまったという。今回の東日本の事態から察しがつくように、18世紀のポルトガルでも余震が続いた。それを防ぐために火刑を実施したというのは、いかにもありそうな設定だが、どうやらVoltaireの空想にとどまるらしい。そもそも、この小説全体が、前回も述べたように奇妙奇天烈な冒険物語の調子で貫かれていることを思えば、こんな冗談が紛れこませてあっても驚くにはあたらない。小説家としてのVoltaireを咎めるわけにはいかない。
 その一方で、啓蒙の世紀le siècle des Lumièresとして知られる18世紀のフランスは、『百科全書』はもちろんVoltaireの『哲学書簡』Lettres philosophiquesや当の「カンディード」までも禁書にするほど、暗愚な狂信者が支配する世紀でもあったことを忘れてはなるまい。啓蒙思想家たちの合言葉として名高いEcrasez l’infâme !「醜類を踏みつぶせ」(訳語は『ヴォルテールの世紀』の著者保苅瑞穂氏による。適訳だ)が端的に示すように、Voltaireはカトリック、特にソルボンヌ大学の神学者たち(上の引用に出てきた「コインブラ大学」は暗にソルボンヌを指している、と訳者はいう)や、ジュネーヴでCalvinの伝統を固守しようとする新教徒たちを「醜類」と呼んで、敵視していた。パングロス自身、愚かな狂信者だが、それにしても天災封じの生贄として絞首刑に処せられた、これはあきらかに冤罪だろう。この二重の狂気の裏には、狂信者に対する作者の怒りが渦まいているのにちがいない。
 ただし、いかに狂信者を憎んでいたにせよ、Voltaireは無神論者ではなかった。次回は、『リスボンの災厄に関する詩』で、それを確認したい。
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