朝比奈 誼先生のフランス語にまつわる素敵なお話




セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
リスボン大地震(その4) 2011.09エッセイ・リストbacknext

石巻の震災状況
 東日本大震災から半年になるが、懸命の努力にもかかわらず瓦礫の撤去は終わらない。それは被災住民の心に刻まれて癒えない傷痕のイメージそのままだろう。東北の気仙沼湾の小島「大島」petite île d’Oshimaを探訪したPhilippe Pons(Le Monde紙特派員)はある看護師の証言をつぎのように伝えている。 « Je ne suis pas là pour soigner mais pour écouter. »「わたしがここにいるのは看護のためではなく、訴えを聞くためです」そして、彼女の語る被災者の現状はいかにも悲しい。(同紙8月19日付)
 Une vieille dame de 93 ans s'est récemment donné la mort en laissant ce message :
« Mon refuge, désormais, c'est la tombe de mes ancêtres. » Les adolescents et les jeunes pensent, eux, ne plus avoir d'avenir ici. Certains ont été traumatisés : comme cette jeune femme de 22 ans dont la voiture a été emportée par les flots. Elle a pu se dégager, mais ses deux amies sont mortes, et elle a depuis une peur panique de l'eau. Elle ne peut plus entrer dans une baignoire. 
 「93歳の老女が最近<私の逃げ場は、この先、先祖のお墓だわ>と言い残して自殺しました。若い人たちの方は、この土地にもう未来はないと考えています。中には心理的な外傷をうけた人もいます。波に車をさらわれた22歳の娘さんの場合がそれです。自分は脱出することができたのですが、友だち二人は死んでしまいました。それからというもの、彼女は水を見るとパニックになり、もう浴槽にも入れないのです。」
 目覚ましい復興のニュースの裏側に、「未来」を見失った人たち(離れ小島に足を運んで、取材したところに記者魂を感じるが)がいる、それを忘れるなという警告だ。
 思えば、リスボン大地震の被災者の身の上も同じだろう。Voltaireは書いている。
 Le passé n'est pour nous qu'un triste souvenir ;
 Le présent est affreux, s'il n'est point d'avenir,
 Si la nuit du tombeau détruit l'être qui pense.
 「わたしたちにとって、過去は悲しい記憶でしかない。
 現在はひどいものだ、もしも未来がないとしたら、
 生きてもの思う人の心を墓場の夜が打ち砕くとしたら」
 被害の大きさにうろたえつつも、詩人は「未来」への希望にすがろうとする。
 Un jour tout sera bien, voilà notre espérance ;
 Tout est bien aujourd'hui, voilà l'illusion.
 「いつかすべてはうまくいくだろう、これこそわたしたちの希望だ。
 だが、今日ただ今すべて最善の状態にある、というのは幻想だ。」
ここで、すでに問題にしたライプニツらの最善説への批判がまたしても繰りかえされる。しかし、注意したいのは「最善説」批判がけっして虚無主義に陥らず、立論の前提として、あくまでも創造主の正しさが肯定されることだ。
 Les sages me trompaient, et Dieu seul a raison.
 Humble dans mes soupirs, soumis dans ma souffrance,
 Je ne m'élève point contre la Providence.
 「賢者たちがわたしを欺いたのであって、正しいのは神だけだ。
 わたしは、悲しみに沈みつつも慎ましく、苦悩のなかでも従順であって、
 立ちあがって神慮に反逆したりはしない。」

ジャン・カラス、事件の張本人
 
 災害から7年後、カラス事件affaire Calasが起こってVoltaireの文名はヨーロッパ中に轟いた。詳細は省くが、Toulouseの織物商Jean Calasの冤罪を晴らすために真相究明に乗り出し、裁判所側を屈服させた出来事である。カトリックに改宗した長男の死をめぐって、新教徒のカラスが殺害犯と断定され、無実の主張にもかかわらず、車刑(四肢・胸の骨を折られ、車に縛りつけられ放置される極刑)に処せられた。彼の名誉が挽回されたのだ。ナントの勅令撤廃のあと、カトリック絶対優位の時代だけに、少数派の新教徒を支援し、ペンの力だけで正義を回復したVoltaireの行動はジャーナリストの本道を示す手本だろう。
 この事件を契機に生まれた『寛容論』Traité sur la toléranceの結論ともいうべき「神への祈り」Prière à Dieuを以下に引く。『リスボンの災厄に関する詩』にも通じるVoltaireの「神」観がうかがえることを確かめてほしい。
 Ce n'est plus aux hommes que je m'adresse : c'est à toi, Dieu de tous les êtres, de tous les mondes, et de tous les temps ; s'il est permis à de faibles créatures perdues dans l'immensité, et imperceptibles au reste de l'univers, d'oser te demander quelque chose, à toi qui as tout donné, à toi dont les décrets sont immuables comme éternels, daigne regarder en pitié les erreurs attachées à notre nature ; que ces erreurs ne fassent point nos calamités.
 「わたしは、いまはもう人間たちに語りかけるのをやめて、あらゆる存在、あらゆる世界、そしてあらゆる時代の神である、あなたに語りかける。無限の広がりのなかに紛れ込んだ、微細すぎて宇宙には感知できないか弱い人間が、すべてを生み出したあなたに、不変にして永遠の神慮をもつあなたに、あえてなにか頼みごとをするのが許されるものならば、どうかわれわれの本性ゆえの過ちを、哀れみをもって眺めていただきたい。そして、それらの過ちがわれわれの災いを生むことがないようにしていただきたい。」(保苅瑞穂訳)
 この「祈り」にこめられた作者の思いは重く、深い。遡って、身のほどを忘れて最善説を唱えたライプニツたちをも、彼らの憶説に怒りをぶつけた自分自身をも「哀れみをもって眺めていただきたい」といっているように取れるのはもちろんだが、考えようによっては、その射程は現在のわれわれ日本人にもおよんでいやしないか。われわれは20世紀に原爆をくらってその被害の大きさをさんざん教えられたはずなのに、科学技術の進歩を過信するあまり、国土の立地条件を顧みず、50基を超える数の原子炉を海辺につくるという「過ち」を犯してしまった。これでも、寛容な「神」は許してくださるのだろうか。
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