Nantes(ナント)の街の中心部から、少しだけ西に、坂を上り、そして坂を下ると、Place Melinette(メリネット広場)という大きなRond point(ロータリー)があり、この辺りは、落ち着いた住宅街、Quartier Melinette(メリネット街)を形成している。そのロータリーを一周している車道の内側は、かなり大きな円形の広場になっているので、犬が散歩したり、飼い主と遊んだりするには、理想的な都会の緑地帯である。が、頻繁に横切るには、なかなかの距離がある。そもそも、この広場の中心に、General Melinette(メリネット将軍)の銅像が立っているから、こういう名前らしい。が、私がこの広場に入るのは、大きな直径のロータリーを渡るためだけなので(= 周囲を歩いていたら、ますます長くなってしまう)、円の中心でわざわざ銅像を眺めたことはない。車道を含めると、直径70〜80mはありそうな巨大な円形の端の方にいる時に、自分の乗りたいバスが、円の反対側にあるバス停に到着しつつあったら、まず間に合わない。で、広場にさしかかると、何でもいいから走る傾向のある私は、メリネットさんが、いったい何をして銅像になった将軍なのか、知ろうとも思わなかった。
いずれにしても、この広場には緑が多く配置され、銅像の周囲は、芝生と季節の花で幾何学模様を造る西欧的仕様の庭になっており、円周に近い所には、樹木が、これも円形に植えられている。そして植木屋さんは、これらの木々1本ずつに鋏(はさみ)を入れるのではなく、隣り合って並んでいる数本が、まとまって弧を描くように、つまり、あたかも1本の木のように剪定していく。日本では、垣根になっている樹木が、こういう風に剪定されて四角い面を造っているが、メリネット広場の場合、1本1本の木がかなり大きいのに、それをひとまとめにしてしまう大規模園芸には、ちょっと驚いた。このあたりにも、西洋造園のコンセプトにおける、日本庭園とは異なる、乾燥した合理性みたいなものを感じる。
そして、地面の幾何学模様を形成する草花のほうは、ナント市の職員が担当し、時々、花を植え替えている。フランスには、春には満開のチューリップ、夏にはカンナや朝顔、…、というように、季節の花がちょうどよく咲くよう、市によって管理されている庭が街角のあちこちに見られる。当初は、その園芸能力に感心したが、実は、季節の変わり目になると、植えてある植物を掘り起こし、別の植物を植えていくのである。つまり、ずっと植わっているものに花を咲かせるのではなく、咲いているものを持ってきて、人為的に植え替えてしまう、必ず成功するパターンである。「ちょっと、八百長!」という気がしないではないが、このシステムによって、フランスの街には、旬の花満載の大きなブーケが、そこここに配置されているように見えるのだろう。こういうのを写真に撮ると、誰でも、絵葉書のように上手く撮れる。しかし、実際の植え替えを見ていると、「折角、咲いているものを抜き取らなくてもいいのに、…」と、可哀想な気がしてくる。たとえば、大きな桜の古木などで、咲いている花は(高いところにあるから)見えなくても、落花を楽しむという日本人の感性と、まだ蕾のついている株を、市役所のカレンダーにしたがって抜いてしまう、プラグマティックな造園技術は、やっぱり相容れない感じである。東洋と西洋、あるいは日本とフランスが、理屈以前に擦れ違ってしまう時、原因は、そういうところにあるのだろう。完璧でない形 = 歪んだ壺、を美しいと思い、虫の音や水滴の響きに涼しさを感じ、追風(おいかぜ)用意(= 通り過ぎた後に残る、微かな香)を楽しみたい、日本の美的感覚にとっては、ある種の、生理的痛みを伴う瞬間でもある。
しかし、別の驚きにも遭遇した。ある植え替えの日、新聞紙やバケツなどを持ちこんで、掘り起こされた植物を、嬉々として持って帰ってしまう市民達で、ごった返していたのである。どうせ捨ててしまうのだからリサイクルしようという、こちらも、西欧的合理性の成せる業だろうか?『捨てる神あれば、拾う神あり』というのは、こういうことかも知れない。世の中は、うまく出来ている。
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Place Melinette (メリネット広場)。
General Melinette (メリネット将軍の銅像)の前に幾何学模様の庭の一部、後ろに、5本まとめて弧を描くように剪定された樹が見える。
これは、4月頃の写真なので、花壇にはチューリップが植えられている。
5月になると、広場の樹も爽やかに茂ってくる。
6月半ばを過ぎ、花壇のチューリップは、朝顔に植え替えられている。
「とっても紫!」の朝顔と同時に、小さめのバナナの樹と、黄色いグラジオラスのコンポジションも登場し、広場は、夏を装う。
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