*** 冬の朝靄(もや)に煙(けぶ)る、白壁の館 ***
白い壁の館が、冬の朝靄の中に沈潜している。冬という季節の、温度のない白の中で、館は沈黙している。硬く無表情な立木(たちき)が、葉を落とした枝の先々まで凍りついたように、幽かに揺れる靄の中に、白い館は、自身の存在を無言で抱き続けていた。白く灰色で、艶消しのメタリック。無機的に冷たい、ヨーロッパの冬。敢えて表情を殺したようなモノクロの映像に、冬のヨーロッパが結晶していく。色を消し、温度を消し、気配を消した白い世界すべての存在を、時間を止めた空間に閉じ込めてしまう、冬の空気。動かない寒気の中で、しんしんと伸びていく季節の結晶は、無音の空間をも貫く容赦ない金属性で、冬という時を刻んでいた。その秒針の、音のない音が正確に続いている限り、冬はとどまる。何日も何日も、厳格な秒針に身を刻まれながら、音を消した時が過ぎていく。なかなかやってこないヨーロッパの春。遠い春。遅い春。いつになったら、春が来るのだろう?と、今日も明日も溜め息をついて窓の外を眺めている、そんな時、耳を澄ましてみたら、冬の秒針が聞こえてくるのかも知れない。
やがて、少しだけ太陽の温度を感じるような、朝の到来に気がつく。すると、見えない秒針は、ちょっと不規則になっていて、その思いがけない不確かさに、自分自身で戸惑っているような音になってくる。そんな日にはきっと、待って待って、待ちわびた春が近づいているのだろう。日本の冬には、〈冬将軍〉が居座っている。だから、冬将軍が鎮座ましましている限り、春はやってこない。もしかしたら、冬将軍も大きな懐中時計をぶらさげていて、北国(ほっこく)の針葉樹のように尖がった秒針が、列島の冬を刻んでいるのかもしれない。その鋭い音が、オホーツクの彼方で割れる氷に掻き消される頃、漸く、日本列島にも、春が来るのだろう。
*** 春の朝焼け : 西フランスの、東雲(しののめ = 夜が明け始めた頃の空の色)***
長い長い、ヨーロッパの冬がやっと少し緩んでくるような、ちょっとホッとする4月。何となく柔らかい明け方の空気が、ベッドの周りを包んでいる。その感触に、ふと、目が覚める。目覚まし時計は、まだ6時前。でも、空気の中の、冬の分量が減っている。もうちょっと正確に言うと、空気の分子に春が混ざってきた、という感じ。冬眠していたクマが、何となく目を覚ます日というのは、こんな感じなのだろうか?と、何だかおかしくなる。まだ、ベッドの中で、春心地を反芻していたいのに、笑ってしまうと、目が覚めてくる。で、クマのように、のっそりとベッドから滑り落ちて、スリッパに足を突っ込む。ゴム草履っぽいスリッパの音を、スッタモンダスッタモンダとさせながら台所まで来て見ると、すごい!窓の向こうは、朝焼けに染まっていた。クールに淡いブルーと、甘い茜色が、東雲(しののめ)のように、互い違いに織り込まれ、空という、大きなタピスリーに仕上がっていた。しかし、この、西洋の窓いっぱいに広がる織物には、「意外にも万葉集風」とでも言いたい、パステル・カラーの絵の具が、和紙を貼り重ねたように置かれていた。それは、互いの色彩が創り出す正確な幽玄をよく知っているかのような、ていねいな置き方だった。
そう言えば、清少納言も、『春は曙。ようよう白くなりゆく山際。・・・』と書いている。「やっぱり、春は、曙なのだろう」と、妙に納得。曙を彩る、縮緬のような薄いブルーと軽いピンクは、お互いの個性を、柔らかく強調し、決して紫にはなっていない。つまり、混ざり合ってはいないのだ。だから、春を演出できるのだろう。万葉の長歌、短歌を綴りたいようなやさしい色紙の上に重ねられた西洋の風物は、真っ黒い影絵となって生きていた。数本並んだポプラの、天を目指して斜めに伸びる枝が、縮緬の肌に縫い重ねられた、ひんやりとした重さのあるジョーゼットのように、黒い瞬発力を秘めて、その存在を主張している。かなりうまく融和した、洋の混在だった。そして、しばし、天空の競演に見入っているうちに、コーヒーを飲みたい感じになってきた。Cafetiere(キャフェティエール = イタリア製のコーヒー沸かし。エスプレッソが美味しく抽出される)に、お気に入りのSan Marco (= サン・マルコというメーカーの、エスプレッソ用に挽いたコーヒー、コーヒー豆を非常に細かく粉砕してあるので、特別美味しいエスプレッソを飲める)を入れて、火にかける。待っている間にも、東雲の茜色は、どんどん薄くなっていった。そして、キャフェティエールの、フツフツという音が聞こえてくる頃には、窓の向こうは、もう、空色の織物に掛けかえられていた。黒いポプラも、春先の緑を取り戻し、幽遠な、洋の混在は、空気に溶けてなくなっている。「本当に、春は曙なのだ。」あの僅かな時間を逃したら、西フランスの東雲に、お目にかかることは出来なかっただろう。クマみたいに、ノッソリと起き上がってみてよかった!と、思いながら、マチスの絵がプリントされたカップを傾ける。ちょっとだけミルクを入れたエスプレッソの苦味が、体中の細胞に沁み込んでいく、そして、眠っていた細胞が、一つ一つゆっくりと目覚めていく、そういうコーヒー色の心地よさに、しばらく浸っていたい早朝の空気だった。それは、急がない時間というフィルター・ペーパーを通して、じんわりと滲み出てくる、贅沢な一滴(ひとしずく)である。冬眠から醒めたクマは、東雲を見て、何を思うのだろう?さっきまで、居心地のいい穴倉の中で続いていたやさしい夢を、まだ引きずっているに違いない(お腹の空いた)クマにとって、東雲は、もうすぐハチミツの匂いでいっぱいになる、夢色の空なのかもしれない。
(octobre 2006
bis
次回に続く)
朝糸を 染めて織り上げ 東雲(しののめ)に
春揺らめきて カフェ香立つ
カモメ 詠
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朝靄の中に、白壁の館が沈潜している。
この靄の奥に、教会の尖り屋根が包み込まれている
この話の、<春の部>の写真を参照。
濃い靄の中に、早朝の道も、ボーっと横たわる。
西フランスの東雲。
東雲が去ったあとの、空色。
春の雨上がり。教会の屋根がよく見える。
<冬の部>の、朝靄の写真と比較!
雨に濡れたポプラが、春の陽を浴びている。
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