*** 2003年猛暑、そして、夕焼け、夕暮れ ***
夏。太陽に支配される季節。自分の出番を一年中待っていた太陽が、地上のすべてを熔かすかのように、炎上する夏。その、射るような陽射しの中で、生き残っていくものには、強い個性が弾けている。たとえば、夏に開く花。自己主張が迸(ほとばし)り、熱い色の花を咲かせる。太陽が、その熱で色止めをしたから、この、触れたら火傷してしまいそうな色が、染め上がってくるのだろうか?しかし夏の花は、照りつける太陽さえも吸収し、その計り知れないエネルギーを養分に、さらに色濃く、さらに艶やかに、咲き誇っては、舞い乱れる。
Nantes(ナント)の街が位置する、北緯47度は、北海道より北(サハリンの南端くらい)に相当するが、温暖な北大西洋海流と偏西風の影響のために、緯度が高い割には暖かい。(第 5 & 6話 《クレヴ・カールという砂浜》 参照)そして、このくらい緯度が高くなってくると、夏場の昼間の時間は、驚くほど長くて、フランスでも夏至の頃(北緯66.6度以北の地域は、白夜になってしまう時期)には、夜11時を過ぎて、やっと暗くなり始める。だから、猛暑の年は、本当に大変である。近年の世界的異常気象で、フランスも、よく猛暑に見舞われるようになった。夜10時半頃、やっと夕焼けになると、強い西日が、乾燥した西の大地を、さらに乾かしていく。歴史的猛暑だった2003年の夏、西日に炒られるような台所で、私は真っ黒なサングラスをかけ、氷を浮かせたガスパチョ(トマトをベースにした、スペインの冷製スープ)を、やっとの思いで流し込んでいた。そういうものしか、食べられなかったのである。それに、ちょっとでも加熱調理をしたら、さらに台所が暑くなってしまうし、窓を開けたら「もっと熱風!」なので、換気も出来ないのである。しかも、こんなに暑くなるのは、フランスでは普通の状態ではないから、冷房もないし、ざる蕎麦、冷やし中華、カキ氷に水まんじゅう、…と、(おそらく)神代の時代から、暑い夏に適応している日本のように、猛暑の最中でも食べやすいものなど存在しない。そういうものは、考えられたことも、必要とされたこともないのだろう。実際、こんな猛暑で、溶けたバターのようになりながらも、フランス人の夫はちゃんと、Steak & frites = フライド・ポテト付きステーキを作り、ますます熱くなったキッチンで、勇敢にもそれを食べていたのだから…。
そんなこんなで、3週間もの間、鎧戸は一切開けず(開けたら最期、室内が熱くなってしまう)、鎧戸のない窓にはビーチ・パラソルの原理を利用して、内側から大きめの傘をさし、なるべく熱くならないようにした。扇風機に濡れたタオルを結わえ付け、気化熱で少しは涼しくならないだろうか?とか、いろいろ知恵を絞っても、結局、暑い。と言うより、「熱い」。加熱したオーブンを開けた時のような熱気が、世の中に充満しているから、どうしようもない。フランス中が、熱波で灼(や)かれていた。夜になっても、気温は、いっこうに下がらず、(乾燥しているフランスでは、例年ならば、夜には、ちゃんと涼しくなったので、クーラーなしでも大丈夫だったのである)、夜中も30度を越えていた。ベッドに横になってみても、マットレスと接触するだけで、また熱い。が、茣蓙(ござ)という、便利なものはないので、板の間にバスタオルを敷いて、漸く眠った。通気性のある、「畳」というのは、高温多湿の日本の夏のために、実によく考案されたhabitat(居住形態)だと、感心した。
そして、待ちに待った雷鳴が轟(とどろ)いても、雨は降らなかった。雨雲だけは、次々と湧き始め、『南総里見八犬伝』で〈玉梓が怨霊〉が、どろどろと登場する時のように、一天俄(にわか)に掻き曇っても、雨は、ついに一滴も落ちてこなかった。こうなると、本気で〈雨乞い〉というものをしたくなってくる。日本の夏によくあるような、「ザーッと降ったら、マイナス・イオン!」のような夕立が、ひどく贅沢な自然の空調システムであることに、遅蒔きながら気がついたりする。日本だったら、「一雨降ったら、涼しくなりますね!」くらいの会話を何回か交わしながら、冷やした西瓜を食べ、枝豆の塩味を楽しみ、水羊羹を竹の楊枝で割り、花火を見ながら、種無し葡萄という、意義深い品種改良に感動しているうちに、台風がいくつも襲来する時候になり、やがて秋の長雨に続いていく。しかも、基本的に湿度の高い日本の夏の場合は、体中が乾ききって、腕や足の皮膚が、クロコダイルの背中のような、ひび割れ模様になってしまうことなど決してない。しかしフランスでは、猛暑でも湿度が低いので、私の日焼けした肌には、干上がった沼地のような白っぽい模様が出来てしまった。市営のプールは、どこも満員!普通の年なら、プールなど、その人生に存在していないような人達まで、唯一、涼を求め得る方法として、プールに殺到してしまったのだろう。受付のカウンター前は、ラッシュ時の山手線のホームのように人で溢れていた。だから、ますます熱い。
そういうものを目の当たりにしてみると、だんだん、空恐ろしくなってくる。このまま、まだ何週間も続くようなら、冷房のある東京に避難すべきだろうか?と、私達は、本気で考え始めた。そんな、ある夜中の1時ごろ、急に、空気に涼しさが戻ってきた。簡単には信じられないのだが、もしホントなら、大いなる何ものかに祈りたい心境である。夜中じゅう、そして翌朝も、その涼しさは逃げなかった。久方ぶりに、ベーコン・エッグなんぞを作っても大丈夫そうな気温に戻った台所で、やっと御機嫌を治してくれた大いなる何ものかに、私達は大まじめに感謝した。こうして、長い猛暑は、漸く下火になっていった。
アフガニスタンなどの中央アジア諸国やアフリカでは、何年もの間、大旱魃が続いているそうである。自分の祖国が、乾いた大地と化してしまった人々の日常が、どんなに大変なものか?という現実は、水資源豊富な国 = 日本にいると、ほとんど理解不能である。そういう問題を、ほんの少しだけでも想像できた、と言うより、想像しなければならない状況に、我が身が陥った、2003年の夏だった。
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夏の花。華やかに、立体的な花を咲かせる。
紫陽花。ナント周辺には、ピンクの紫陽花が多いので、これは、珍しく、日本のような青い花。
紫陽花は、花の中のアルミニウムの量によって、
花の色が変わり、アルミニウムが多ければ青く、
少なければ赤く咲くそうである。土中に含まれる
アルミニウムは、酸性土壌の場合、水の中に溶け出し、紫陽花に吸収されやすくなるため、青い花を咲かせる。
したがって、ピンクの花咲く、ナントの土壌は、ほとんどがアルカリ性だということになる。たとえば、いつも、同じ鍋を使ってお湯を沸かしていると、鍋の底に、石灰が付着していく。そういう水道水を生み出している土壌は、かなりアルカリ性ということになるのだろうか?
夏の午後。ポプラの葉の緑は、次第に深くなり、
乾いた地面に落ちる影も、黒さを増していく
。
梅のような花が咲くが、さくらんぼのような実がなる木。葉っぱも桜っぽい形だから、「何とか桜」というのかも知れない。
赤紫蘇のような葉を通して、夏の太陽は、木漏れ日さえも、朱色に熱い。
春の東雲より、強い個性を
シックにまとめた、夏の夕刻。
夕刻の雲の隅間から、赤い色が抜け落ち、ブルー・ブラックの薄いインクが、空全体に沁みこんで、夕闇を造っていく
。
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