ナントの町から、フラメンコ舞踊家“銀翼のカモメさん”からのお国便り。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。

第十九話
カリブの青い風を見た街、Paimboeuf(=パンブフ)
**序編** 

2007.10
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今回も、また船の話。<船>というと、<ロワール川>、<大西洋>、そして、どうしても、かの <奴隷貿易>に話が及んでいく。度々、読んで下さっている皆さんは、「Nantes(ナント)って、それしかないの?」という印象を抱いているかも知れない。が、実際、それしかない、と私は思っている。わかりやすい例を挙げると、かつて《西のベニス(西フランスのベニス、という意味》(第3話《フェイドー島と奴隷貿易》 & 第9話《西のベニス、奴隷貿易、そしてトラムウェイ》参照)だった時代もあるほど、海運・水運を駆使した都市構造を擁していたために、古い時代から、鉄道の駅が、本来持つべき重要性を発揮しなかったらしい。一応、TGV(新幹線クラスの特急列車)の着くナント駅でさえ、駅前に当然生じる駅機能のためのスペースがなく、駅が、直接、通りに面してしまっている。東京にたとえれば、1路線しか通っていない、乗降客の少ない地下鉄の駅の感覚である。だから、タクシー、バス、迎えに来る人の車、トラムウェイが、狭い通りに犇(ひし)めき合う形で、パリからのTGVが着く時刻になると、駅周辺は渋滞と駐車困難な状況に陥ってしまう。しかし、今更どうしようもないからどうにもならず、毎日、何回も、非生産的にごった返している。東京を発って、ナント駅に着く度に私は、「ウワーッ!田舎だ!」と思う。日本で、鉄道が単線の地域に入り込んだ時のようなカルチャーショックに、自分が脱線でもしたかのようにガタッと陥る。一応フランスでは6番目の都市でありながら、もともとは海運都市だったから、仕方ない。という事情で、しばしば、<船>の話に、お付き合いいただくことになってしまう。

さて、ナントからLa Loire(ロワール川)を下る。西へ西へと、45kmほど下ると、Paimboeuf(パンブフ)という街に着く。海抜、僅か8m。このあたりが、事実上、ロワール川の終着駅で、川と大西洋が出会う場所のような地形になっている。が、海岸線が、大きく内陸に切れ込んでいるために、パンブフの街にいる限り、ロワールの川幅が、突如、広くなったように見えるだけである。本当は、この辺から、もう大西洋になっていると言ってもいいのだろうが、水平線まで続く大洋が目の前に開けた、大きな港湾都市 = St.Nazaire(サン・ナゼール)までは、この長い入り江の中を、さらに15kmほど下ることになる。

ところで、ここパンブフには、大型船が入港できる港としての華やかかりし時代があった。それは、17世紀に始まる。つまり、今までにも少しずつ紹介してきたが、この西フランス地方が、奴隷貿易という濡れ手に粟(あわ)の商売で、18世紀の栄耀を欲しいままにしていく、前時代である。その頃、何本ものマストを掲げた大型帆船が、競うようにサン・ナゼール港からロワールに入り、異国の物資と富を、西のベニス = ナントに向けて運搬していった。しかしロワールは、現在でも、ヨーロッパ最後の野性的1級河川、と言われているように、護岸工事がされていない場所も多いし、雨が降り続くと、驚くほど簡単に洪水になってしまう。ナント周辺で、いつもは緑の原っぱだったところが、頻繁に沼のようになっている(たぶん、土地も、非常に平らなのだろう)のを見て、初めは驚いた。しかもロワールは、潮の干満によって、水位も流れ方も絶えず変化するので、サン・ナゼールからナントまで、安全に航行するのは非常に難しい。さらに、積荷の多い大型船は、船底が川床に着いてしまうので、船の規模によっては、ナントまで遡(さかのぼ)れなかった。そこで、このパンブフが、ナントのavant-port(アヴァン・ポール = 外港)として、ロワール河口地帯における、重要な役割を担っていったのである。17世紀以前は、基本的に漁民で形成されていた集落が、18世紀初頭、あっと言う間に、本格的な海運都市になってしまった。フランス革命(1789年)直前には、すでに人口10,000人を数えており(同時期のナントの人口は70,000人、サン・ナゼールは、僅か700人だった)、18世紀における港湾都市形成の実例を現代に伝える、数少ない街のひとつである。

しかし19世紀に入ると、サン・ナゼールが、港としての重要性を、次第に大きくしていく。また、常に、川床に土砂を堆積し続けるロワールの流れは、その水深を浅くし続ける。しかもこの時期に奴隷貿易の終息が重なって、パンブフ港は急速に衰退してしまう。したがって、外港というステイタス(=社会的地位)の上に成り立っていた様々な商業活動も、夜の闇の向こうに吸い込まれていく線香花火のように、勢いを失っていった。こうして、いつの間にかパンブフの華麗な過去は、人々の記憶の奥底に追いやられ、1926年には、Loire-Atlantique(ロワール・アトランティック)県のsous-prefecture (スー・プレフェクチュール = 副県庁の所在地)でもなくなってしまった。特殊な商いによって、あっと言う間に頂点に上り詰めた街が、短期間にその機能を失い、砂漠に立ちのぼった蜃気楼のように、歴史の表舞台から消えていく・・・。洋の東西を問わず、『奢れるものも久しからず、ただ春の夜の夢の如し』なのだろうか?

実は私達も、このパンブフのことは何も知らなかった。ただ、ロワール河口に近い、何でもない街の1つだろう、くらいに思っていた。ある日曜日、いつものように、Ferrari(フェラーリ)色に真っ赤な、Peugeot(プジョー)の205Junior(205ジュニア)に乗って、西に向かった私達は、車が、いつもとは違う道を選んでいくのに気がついた。普通は、街中から、すぐに海方面のVoie Rapide(Autorouteとは異なる高速道路の1種で、無料)に入っていくのに、この日は、ロワールに沿ってナントを抜け、ずっと、ロワール沿いの細かい道を進んで行った。「今日は、新しいaventure(アヴァンチュール = 冒険)なの?」と訊いたら、夫はハンドルを握りながら、「車だけが知っている。」と言った。「それって、天啓みたいじゃない!」と思ったら、「車が、僕に運転させているんだから、僕が選んでいるわけじゃないんだ!」という説明が返ってきた。基本的に私達の間では、いろいろなオブジェがみんな、自分の意思とか行動様式を持っていて、人間である私達は、そういうものを、しずしずと尊重しているような傾向がある。それは、自分の道具を大事にしないと、あんまりいいことは起こらない、というささやかな人生経験を、ちょっとだけ積んだからかも知れない。確かに、自分の道具というのは、自分のパートナーなのだから、自分の犬を大事にしたり、獣医さんに連れて行ったりするのと、同じ感覚である。

というわけで205の気持ちが赴くままに、しばらく西に向かった。この205は、何故か熱いイタリアン・レッドなので、その熱情的な色彩を見ていると、2006年のDisney(ディズニー)映画『CARS(カーズ)』の登場車達のように、本当に、車が、自分の考えで運転しているような気がしてくる。だから、その車体が汚れてくると、車が恥ずかしい想いをしているようで、私達は頻繁に、洗車コーナーに立ち寄っている。車をレールみたいなものの上に停車し、そのまま自動的に、大きなブラシで洗車されていくシステムもあるが、コインを入れたら、自分で洗車プログラムを選び、力強い洗車用ホースで洗う、手動式もある。手動の場合は、2人でチームを組むのがいい。水の出続けるホースを持ったまま、プログラム変更のレバーを回しに行くと、びしょ濡れになるし洗車に費やせる時間も無駄になるからである。だいたい2Euros(ユーロ)で3分くらいなので、4ユーロ使う。私が、予洗 - 洗車 - ワックス - 乾燥のレバーを回し、水しぶきの向こうにいる夫に、30秒間隔で残り時間を知らせる。そして彼は、洗車に専念できる。という、F1ぽいチームワークである。タイヤの空気圧を計る時も、同様のメソッドを適用し、夫はタイヤにチューブを繋ぎ、私がメーターを読む。足りない場合は、メーターのプラス・ボタンを "push, push" (これは、私製の擬声語)という感じでプッシュして、タイヤに空気を入れる。空気が足りないと、勿論、安全にも支障があるが、夫が言うように、「車の足が痛いと可哀想!」だからである。人間も、底の磨り減った靴を履いていると、足が草臥(くたび)れる。それと同じである。こんな風に整備の行き届いた私達の205は、この日も勿論、Monaco(モナコ)のGrand Prix(グランプリ)にエントリーしたかのように、ピッカピカで嬉しそうだった。

さて、小さい県道や、<Route pittoresque (ルート・ピトレスク = 景色のいい道)>、などと書かれた細い道を、西へ西へとひた走り、小1時間も進むと、路肩にPaimboeuf(パンブフ)という字を、赤い枠で囲んだ看板が立っていた。(この看板の地点から、パンブフ市内に入る、ということ)すると205は、まるで私達の顔色を窺(うかが)うような素振りで、何となく速度を落としていった。この辺が、今日の目的地なのだろう。車の窓から見えるロワールの川幅は、急にとてつもなく広くなっていて、向こう岸の景色は、随分遠かった。海沿いの街で、隣の岬を見るような距離である。そして、その遠景には、中東情勢のドキュメンタリーを見ているように、炎を吹いた煙突があり、製油所のような大規模な設備が広がっていた。まるで、砂漠でオアシスの幻影を見たかのように、不思議な気がした。それを見た夫は、「向こうはDonges(ドンジュ)だね。」と言って、川沿いのパーキング(平らな地面に、白ペンキでラインのひいてある、漠然とした空間)に入り、そろそろと205を停めた。そう言えば、ロワール河口に製油所があると聞いたことがあったが、それがこの辺だったのか・・・。

しかし、現代の基幹産業で潤うドンジュに向かいあったパンブフの日曜は、まるで音を消してしまったかのような静けさの中に埋没していた。18世紀に栄光の階段を昇りつめてしまったパンブフの街は、もう、その後の歴史に何の興味も関心も抱かないのだろうか?ちょっと世捨て人っぽい、無意思なのに、どこか怠惰な空気が、陽の当たる川沿いの路(みち)に転がっていた。9月のパンブフには、古代遺跡を歩いているような、乾いた諦めが堆積している。夢を追い求め、欲を満たし、栄華を極めた。が、ある時を境に、季節風のように、歴史の風向きが変わってしまう。少しずつ満ちてくる潮に、力なく崩されていく砂の彫刻のように、全てが終わり、消えていった。そして、誰もいなくなった。『築城3年、落城3日』は、人間の世の習いなのかも知れない。そんな瞑想が、フロントグラスを前にした私達の喉元に、opaque(オパック = 不透明)な白さで広がっていった。その、霧(もや)のように立ち込めてくる、色のない瞑想を遮(さえぎ)るかのように、夫は、明確な動きで手首を捻り、車のキーを回した。エンジンが止まる直前、205が、悪戯っぽいキラキラ光る目を、フロントグラスの中でギューッと斜めに押し上げたような感じがした。

歴史の御簾(みす)の奥で、昏々と眠っているパンブフの街で、私達が何に出会い、何を感じ取ってくるのか?車は、私達の感性の周波数と、感度を試したかったに違いない。自分の、真っ赤な美しいボディーに乗せるに相応(ふさわ)しい人間かどうか、205は、時々、私達を試しているようだ。そして、この日の、かなりデリケートな課題を私達に提示し終わると、車は、本来の、ちょっとポップなオブジェに戻ったようだった。そして、私達は外に出た。
(前編に続く)

(octobre 2007)


次々と 大型船を 送り出す 
貿易風の 駆け抜けた街
カモメ 詠

ナント駅の正面玄関 = 北口。この、たった2階建ての平らな建物が駅舎で、駅前広場もないところに交通機関が全部集中している。


駅舎の背にして撮った写真。右の白い車がタクシー。その向こうに、自転車とオートバイの置き場があり、その横がバス停。しかし、バス停に入るのは至難の業。その向こうに、ほんのちょっとだけ駐車できるスペースがあるが(送迎の人用)、送迎でなくても、駐車して行ってしまう。その車の横が、バスも含めた車両通行レーンになっている。さらに向こうが、トラムウェイの停留所。だから、始終、ごった返している、カオスのような駅。

この地域の地図。ロワール川の川幅が急に広くなり、パンブフの、向こう岸、ドンジュの街は、随分、遠いところにあるのがわかる。この辺は、大西洋の入り江でもあり、ロワール最下流地域でもある。ここから、15km程下っていくと、造船の街、サン・ナゼールに到着する。


Ferrariのように、熱いイタリアン・レッドのボディーを誇らしげに、縦横無尽に西フランスを走り抜ける私達の、Peugeot 205 Junior


洗車マシーンの、大きなブラシで洗われている最中の205 Junior。洗われながら、車内から撮った写真。この大きなブラシは、意外にソフトで、触ってみるとさぞかし、車も気持ちがいいだろう!という感触。最後に、乾燥する時は、ブラシが風を送りながら車体を、やさしくケアして終わる。そして、車は、サウナとジャクジーから出てきた人間のように、すっきり、軽やかな顔をしている。

パンブフの岸から、ドンジュを眺めると、こうなる。水平線かと思うような遠景に、中東のドキュメンタリー に見るような、製油施設が連なっている。

もう使われなくなった船用ガソリン・ポンプのメーター。〈このメーターに表示される、値段とリットルだけが正しい数値である〉という文句が書かれている。しかし、それ以外に何があるのだろう?という疑問が沸いてくるが、そういう細かいことが気になってしまうのは、日本人だけらしい。いずれにしても、こういうものが、長い間放置されて、忘れ去られていくところに、鄙びた港街の風情が漂い、その風雅もまた、潮風に錆びていくのである。


過ぎ去った、パンブフの栄光の時代に、私達を繋ぎとめようとするかのような、赤く錆びた鎖。静まり返った日曜の午下がり、引込み線の向こうに浮かび上がる18世紀の映像に、私達は、いっぺんに惹きつけられ、知らず知らずのうちに強く、舫われてしまった。


本来は川岸なのに、外港だったから、灯台がある。 これだけの川幅の中を行き交う船のためにはやはり、灯台が必要なのだろう。この灯台は、17世紀、歴史の表舞台に駆け上がり、18世紀、栄耀栄華の頂点を極め、19世紀、満ち潮に消される砂浜の落書きのように、サン・ナゼールの発展に飲み込まれていった、港町パンブフを、朝な夕な見つめてきた。眩しい朝日の中で、自らの灯す明かりの中で、灯台は、歴史に翻弄されながら、移り行くパンブフの街を、静かに、ずっと見つめてきた。

Paimboeuf (パンブフ) へのアクセス
I) Paris - Monparnasse(パリ・モンパルナス)駅から、TGV Atlantiqueの、 Le Croisic(ル・クロワジック) 方面に乗る。Nantes(ナント)駅下車。(約2時間) - Acces Sud(南口)に出ると、Hertz(エルツ), Europe Car(ユーロップ・カー),Avis(アヴィス)などのレンタカーの支店が並んでいるので、車を借りる。レンタカーを借りたい場合は、基本的に、出発地で予約しておいた方がいい。 - 駅は、ロワール川の右岸にあるので、川中島のL'Ile Beaulieu(ボーリュー島) を通って、さらに左岸まで移動する。左岸に入ったら、Pornic(ポルニック)、 St.Brevin(サン・ブレヴァン)方面を目指す - サン・ブレヴァンの手前で、Paimboeuf(パンブフ)方面が表示されるので、 それに従って進む。ナントから、車で約40分。
II) Paris - Monparnasse(パリ・モンパルナス)駅から、TGV Atlantiqueの、
Le Croisic(ル・クロワジック) 方面に乗る。
St.Nazaire(サン・ナゼール)駅下車。(約2時間45分)
- 駅で、レンタカーを借りる。
- サン・ナゼ―ルは、ロワール川の右岸にあるので、Le Pont de St.Nazaire
(サン・ナゼール大橋)を渡って、左岸に来る。
- 左岸に入ったら、東に向かう。程なくPaimboeuf(パンブフ)の表示が出てくるので
それに従う。サン・ナゼールから、車で約20分。

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