満ちてくる潮を待って、外洋に乗り出していく船を想像したら、額田王の歌(万葉集)が浮かんできた。
熟田津(にぎたつ)に 船乗りせむと 月待てば
潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
この歌は、額田自身が、その生涯の中で、歌詠みとしても女性としても、最も充実した時期に詠んだ歌とされているが、確かに、充足した精神の在り様(よう)が、歌詞にも歌風にも溢れている。船を押して、漕ぎ出さんばかりの気持ちが、三十一(みそひと)文字に満ち満ちている。〈船出〉というのは、本来、こういう、何かに向かって前進していく、洋々たるものなのだろう。そういう高揚感を何回も経験した船達が、海の泥の中で、気の遠くなるほど、長い長い時間をかけて風化していく。その、どうしようもない不条理に耐えるのは、大変なことである。
かなり大型の船も、幽霊船のように骨組みだけをのこして、泥に埋まっている。沢山の板切れ一枚一枚に、緑の藻が纏(まと)わり付き、この船が、船でなくなってからの年月の重さを教えていた。もし、ここが原っぱだったら、舳先にタンポポが生えたり、クローバーがピンクの花を咲かせたりしているのだろう。それでも尚、この船は、その大きさゆえの、存在感を呈し続けている。もっともっと深い海だったら、魚達の泳ぎ遊ぶ、絶好の漁礁になれただろうに、遠浅のノワールムティエでは、それも叶わない。船は、どんな気持ちで、来る日も来る日も、まだ、自分達のことを忘れていない大西洋に、その体を洗われているのだろうか?大洋の藻屑となって消えることも出来ず、彼らを捨てた人間達の近くに、今日も、明日も横たわっている。そういう船達が、かつての自分を思い起こすことがあったら、何を想うのだろう?自分が運んだ、沢山の人間達のことだろうか?楽しい思い出か、淋しい記憶か…。そんな彼らの遠い追憶が、どうしようもない葛藤を呼び覚ます時、海は荒れるのかもしれない。抑え切れない相克に悶える時、船は、人間達を嵐の海に誘い出し、飲み込んでしまうのかも知れない。そして嵐明け、鏡のように静かな海に戻った時、船は再び、自分が船として生きた日々の、温度ある記憶を消して、物体となり、自分の墓場に身を横たえるのだろう。だから、時々、海は荒れ、人間は、その波間に消えていく。
無数の波を乗り越えて、人間達の往来を助けてきた船達は、鉛色に塗り込められた時化(しけ)の海の憤りも、燃えるような夕陽(ゆうひ)に染まる、真夏の海の情念も、昨日のことのようによく覚えている。だから、こんな荒んだ墓場では、死ぬことが出来ない。もう、忘れてしまった振りをしていても、やっぱり、過去の夢を引きずっている。呪縛の氷の中で、船達は過去を反芻(はんすう)している。船体が、すっかり風化してしまうまで、それは続くのだろう。そして、船の形も留めない、朽ち果てた板切れになってしまった時、初めて、彼らの呪縛は融けるのかも知れない。その時やっと、船は泣くことが出来るのだ。でも、たった一枚の板になっても、それは、船形に撓(たわ)められているから、そこに、最後に浴びた、朱(あか)い夕陽の温度が残っている。そして、船は号泣する。
人間も、あまりの悲しみに遭遇すると、涙なんて出てこない。泣いてなどいられないほど、哀しいからである。それでも存在し続けなければならない人間は、その悲しみを凍結する。自らに課す〈呪縛〉である。でも、人間には〈日にち薬〉という、仙人が処方した薬がある。どんなことがあっても、その傍らを、必ず過ぎていく〈時間〉があり、それが、人間の慟哭を癒してくれるのだ。沢山の時間が過ぎ、いろいろな、ほとぼりが醒め、やっとのことで何かが融けてくる。そして、自らに課した呪縛が、解(ほつ)れる糸のように解(ほど)けてくる時、ふと、涙が零れてくる。日にち薬が効いたのだろう。やっと、泣いてもいい時が来たのである。しかし、今頃になって、今更、泣いても仕方がない。もう、そんな時は、過ぎてしまっている。そう思いながら、そう確信している自分に反して、意外にも、号泣してしまう自分がいる。
船だって、きっと泣きたいに違いない。でも、風化し尽くされてしまうまでは、泣けない。だから、呪縛の中で、物体の振りをしている。船達が、本当に涙に溺れることができる日、それは、何年後かに訪れる、大潮の日かも知れない。そして、船形にカーブした板切れは、沢山の塩辛い涙で膨らんで、たっぷりと満ち満ちた潮に乗ると、懐かしい大西洋に流れ出ていく。何年振りだろうか?この感覚!待ちに待った満ち潮に身を任せ、満を持して、外洋を目指す。船でなくなってもいい!たった1枚の板切れでもいい!久し振りに、頭上にカモメが飛来し、魚が飛び跳ね、往来する船と擦れ違う。汽笛が聞こえ、夕陽の朱に染まり、夕暮れには、灯台の灯りが点(とも)り始める。暗い海岸線に、教会の屋根が尖っている。板になっても、やっぱり船だ!船と同じように、水面に浮いている。泥の上に横たわってはいない。波に揺られながら、かつて、美しきプレジャーボートだった日々を思い出す。そして、遠く、遠く、もっと遠い外洋に流れていく。うまく海流に乗れば、Cape
Horn( =ホーン岬)も廻れるかも知れない。そんなことを想いながら、一枚の、船形の板切れは、もう1度、船になった。そして、泥の上に舫われたまま風化していった、永い永い地獄の日々を忘れた。船は、船としての尊厳を取り戻した。だから、暴風雨に会って、大海に飲み込まれても悔いはない。今、自分は船なのだから。もう1度、船に戻れたのだから。そして、船は、果てしなく碧い、どこまでも丸い水平線を目指した。その碧い、青い、地球の果てを、やっと自由を取り戻した自分の、墓場に選んだのである。
そんな、船達の声が聞こえてきたような気がして、もう1度、骨組みだけになった、船形の板の羅列を眺めてみた。そこには、真っ白いカモメが降り立ち、何かを啄(つい)ばんでいる。そして、真夏の瀬戸内海の凪のように、時間は止まったままだった。止まった時間という重さの中で、動かない空気も、とろりと留まっていた。その、濃い油のような執拗さが、水彩絵の具で描ける筈のノワールムティエの空気に、絡みついていた。緑色に揺れる、藻の束縛のように、したたかに絡みついていた。もう誰も、この船達の名前を知らない。
私達は、その間ずっと、フェラーリのように真っ赤な205から離れなかった。というより、音もなく朽ち果てていく船達の、無音の崩壊を目にして、それ以上、近づけなかったのである。船だった筈の板切れからこぼれる嗚咽が、潮の囁き、海泥の呟きに飲み込まれ、渦を巻き、何かに耐えるように、じっと動かない大気の奥に充満していくようで、その、見えない圧力に抗し切れなかったのである。私達は、ただ、そこに立っていた。そして、何も言わずに205に乗り込んだ。できるだけ、音を立てないように車のドアを閉めると、そおっと遠巻きにUターンして、もと来た、埃っぽい砂利道を帰っていった。
砂色の道端には、薄いピンクのヒルガオが咲いていた。
そして、その船達の名は、忘れられた。
(juin 2007))
ひたひたと 零れるまでに 満ちる海
叶わぬ船出の 呪縛狂おし
カモメ 詠
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もはや、船でなくなった船達が、累々と横たわっている。
船の墓場のすぐ後ろは、17話で、表側から見た小型造船所で、その向こうには、健在なプレジャーボートが停泊している。さらに後方に見える、黒い三角屋根を擁した建物は、ノワールムティエの城砦である。つまり、街の、ほとんど中心部に、この墓場は存在していることになる。城との距離は、東京駅に喩えたら、八重
洲口と、丸の内ビルディングにも満たないかもしれない。だから、この光景は、よりいっそう特異な雰囲気を放っているのである。
このまま放置され続けていくと、船は、船形の板が組み合わさった、骨組みだけになっていく。
船の骨組みに、緑の藻が絡み付いている。近づいていくに連れて、その異様さも拡大する。
前輪を持ち去られ、そこに残る船同様、すでに車でなくなった車。どこかから持ち去られてきた盗難車か、ここに駐車している間に、こういう憂き目にあったのか・・・?これも、舫われたまま、朽ちていく船の想いを飲み込んだ、相克の海のなせる業のような気がしてならない。
この不思議な光景の傍らに咲く、ヒルガオ。砂浜のように、水分の少ない土地でも、逞しい根を伸ばして咲くヒルガオは、船が滅び、車が錆びても尚、何事もなかったかのように咲き誇っていく。
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