2007年の夏、ナントでは、“Estuaire (エスチュエール = 河口)2007”(詳しいお話は、また別の機会に!)という催しが開催され、再開発された川中島のIle Beaulieu(ボーリュー島)が、その名も、Ile de Nantes(ナント島)と改名され、西の首都 = ナントの、1番モダンなスポットとして、華やかにお披露目した。その、一番川下の先端に、Quai des Antilles(アンティーユ河岸)という、植民地っぽい温度の伝わってくる名前の岸があり、そこに、かの《バナナの倉庫》は、長々と横たわっていた。以前、Trentemoult(トロントムー) (第2話 《桟橋のある街 トロントムー》 参照) の岸に、丸い方位図が埋め込まれているのを見つけた時、その中に、《バナナの倉庫》と示してあった。それで、どこかボーリュー島の周辺に、そういうものが残っているのだろうと思って、何となく探してみたこともあったが、結局、その時は、どの建物なのか、見当もつかなかったのである。今回の再開発のお陰で、漸く、どこにあるのかわかってみると、それは意外にも、打ちっぱなしのコンクリートで出来た、一種の、巨大なブロックだった。しかも、私達の愛車、真っ赤なPeugeot(プジョー)205 Junior(205ジュニア)で、目的なく散策に出かける時、よく車を駐(と)めて、ロワール下流に向かって沈む夕陽を眺めたことのある、ボーリュー島の西の端っこだった。
しかし、この倉庫の建築当初、すでにコンクリートが存在していたということは、奴隷貿易より、ずっと時代を下って建てられたことになる。で、少なくとも、新大陸から、帆船で、バナナを運んできたのではないと、わかった。では、「いつ頃、出来たのだろう?」と思いながら、その辺を歩いてみたら、ちょうどいい看板が立っていた。バナナ満載の貯蔵庫内部の写真が紹介され、説明も載っている。それによると、Maurice BERTIN (モーリス・ベルタン) 氏所有の、この倉庫は、第2次大戦直後の1948年に建設され、総面積8,000uにも及ぶ。1970年まで、Guadaloupe(グアダルーペ), Martinique(マルティニック), Guinee(ギニア), Cote d’Ivoire(象牙海岸)産のバナナをストックし、熟成させていた、そうである。なるほどね!そういえば、ボーリュー島には、巨大な製氷工場の跡ものこっている。これも、甚だしく大きなコンクリートのブロックで、僅かに、Entreprise Frigorifique(アントルプリーズ・フリゴリフィック = 冷蔵業)と読めるので、そういうものか思えたのだが、企業名も何もわからない。だから、この建物で造られた、氷の歴史については、残念ながら全く不明である。が、冷房システムのない時代、バナナ貯蔵庫で定温管理をするには、どうしても氷が必要である。という理屈から、私としては、この工場で生産された大量の氷もまた、引込み線に乗ってアンティーユ河岸まで運ばれた、と考えたい。何しろ、この工場の前でも、線路は縦横に交差し、河岸にむかうもの、隣のベガン・セ精糖工場 (の敷地内) にはいっていくもの、etc. 当時の物流の勢いが、チャコール・グレーのアスファルトから立ち上ってくるのだから。
さて、貯蔵庫について、少しだけわかってみるとで、今度は、バナナの輸送船について知りたくなってきた。で、少し調べてみたら、日本でもお馴染みのChiquita Banana(チキータ・バナナ)が、バナナの輸出に画期的なシステムとして、定温輸送船を導入したのが、1903年だということがわかってきた。バナナの後熟に最適な温度・湿度を管理する技術や設備を開発して、輸送船に設置することで、高品質なバナナの供給を実現可能なものにしたそうである。こんな風にして、ナントにも、定温輸送船で大量に運ばれてきた、新大陸とアフリカ大陸のバナナが積み上げられ、それが、温度・湿度の維持された貯蔵庫で、甘く、やわらかく、ちょうど食べごろの黄色になるまで、港の喧騒の中で後熟されていった、ということになるのだろう。
しかしそれは、戦後間もなくの話である。では現在、この後熟の果実は、どんな貯蔵技術を使って輸送されているのだろうか?で、Transport Maritime(トランスポール・マリティム = 海運)について調べてみると、P.C.R.P(Porte Conteneurs Refrigeres Polyvalentes = 多目的冷蔵コンテナ搭載船)という船で、アンティーユ諸島から、週に1回、フランスに輸送されてくることがわかった。このバナナが収穫される現地の気温は、コンスタントに28℃はあるので、コンテナの温度を12-13℃の保つことで、輸送中の熟成を避けることができるそうだ。で、3つの技術があった :
1) |
収穫したバナナを収穫地で貯蔵しておく際に、直接、冷蔵システムを備えたコンテナに積載し、自動的な温度管理を始め、そのコンテナを、そのまま輸送船に乗せる。 |
2) |
冷蔵システムのないコンテナに貯蔵する場合は、出港を待つ間、港の冷蔵壁(冷気を出す壁)にコンテナを装着し、その冷気を、コンテナ内部に流通させる。
したがって、バナナの収穫(枝から切り取る作業)は、出港直前に行われる。 |
3) |
出港当日に収穫されたバナナ = banana chaude(バナナ・ショード = 獲れたてのバナナ)に関しては、輸送船の中で、冷蔵作業を行なう。 |
上記のようにして、とにかく、何らかの冷蔵システムで輸送船に乗り組んだバナナのコンテナは、2-7個積み上げられた形で、船内の冷蔵壁に装着される。13℃の冷気が、コンテナの下の弁から入り、上の弁から出て行く、という流れで、全体を冷蔵するらしい。さらに、冷気を入れる代わりに、排出されるコンテナ内の空気が採取され、その温度と匂いで、万が一、熟成の始まってしまったコンテナがあった場合、すぐにわかるようになっている。そういう場合は、問題のコンテナだけ、全体の冷気の流通から除外するらしい(おそらく、被害を最小限に食い止めるため)。そして、到着地に入港するとすぐ、“Sante Bananes”(バナナの衛生)というテレックスが送られ、専門の職員が検疫のために乗船する、そうである。
今まで、遠洋漁業で獲れた、美味しい、新鮮な魚をさんざん食べていながら、輸送船の冷蔵設備に関心を持ったことさえなかったが、ロワール川の《バナナの倉庫》が海上冷蔵ユニットについて考える、思いがけない機会を提供してくれたことになる。
こういう冷蔵システムのお陰で、1970年まで、ボーリュー島の貯蔵庫に満載されたバナナは、倉庫の前を河岸に沿って走る引込み線で、島の中にある貨物の駅まで運ばれていったのだろう。そこで貨車を乗り換えて、フランス各地に出荷されていったのだろうか?物流ってすごいね!とにかく、甘いバナナを食べたいから、大西洋を越えて輸送する手段を開発する。そして貯蔵し、出荷する。これだけの作業工程を踏みながら、バナナはいつでも、他の果物に比べたら、ずっと安価で、庶民的なフルーツだった。おそらく、大量に輸送できて、梱包・輸送の手間も少ないのだろう。でもきっと、現地で収穫する人の労働力が、バナナの価格のように安いに違いない。もともと、プランテーションで働く黒人奴隷によって収穫されてきたのだから、今でも、過酷な条件で、この後熟の果実のために、朝から晩まで働いている、沢山の、コーヒー色の肌をした人達がいるのだろうと考えた。
甘くて、安くて、美味しくて、携帯しやすくて、剥きやすいから食べやすい、バナナという果実。今度、この黄色い果実の肉厚の皮を剥く時は、収穫に携わった新大陸の人達のことを、考えながら食べてみよう。そうしたら、ちょうどよく熟したバナナの甘さに、もう少し奥深い味わいが加わっているかも知れない。彼らは、自分達が収穫した果実が、遠いヨーロッパや日本まで運ばれて、現地の貯蔵庫で、ちょうどよく熟して、スーパーマーケットの棚に積み上げられていくのを見ることなど、決してないのだから。私の頭の中で、コンテンポラリーなコンポジションとなった、バナナの房と房は、さらに重なり、地球独楽(こま)のように、ぐるぐると回りながら、黄緑から黄色に移りゆく、油絵の具っぽい質感のあるグラデーションを展開していった。その華やかなエキジビションは、熱帯植物の枝にとまりながら、ツンとすましている、極彩色の鳥のように美しく、ついこの間まで、〈いつでもどこでも山のように積まれて売っている、ありふれた果物〉だった、バナナのイメージとは、随分かけ離れていた。この、ジャマイカの国旗のような2色の絵の具が微細に変化していく、新大陸のパレットで、こっくりとした色は、ゆっくりと、時間をかけて混ざり合いながら、まろやかにとろけ始めた。そして、そこから発する香りも、肉厚な芳(かぐわ)しさを、熟成させていった。甘く、食べごろに熟したバナナの房が、1つずつ離れて、回り続ける独楽の遠心力で、ブーメランのように飛び散っていく時、私の脳裏で、濃い、ラム酒のように芳醇な、アンティ−ユ諸島の香が、黄色い花火を炸裂させた。
(Fevrier 2008)
嵐越え 大西洋を 渡り来る
バナナの黄色に 河岸さんざめく
カモメ詠
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ボーリュー島を、上空から撮った写真(1997) = Atelier et Chantier de Nantes (ボーリュー島にのこる、ナント造船所の建物)に常設展示されている写真。この川中島がボーリュー島で、ナントの中心街は、この写真の上部に位置している。バナナの貯蔵庫は、この島の左端(ボーリュー島の最西端)に横たわる、長方形の建物で、このあたりが、アンティーユ河岸。
ボーリュー島西端と、周辺地域の地図。
※画像をクリックすると、拡大表示されます。
ボーリュー島の最西端を、ロワール川を往来するナヴィバスから眺めた様子。写真中央に聳える巨大なクレーンは、Grue Titan(ギリシャ神話の、タイタンのクレーン = 絶大なパワーのクレーンという意味)と呼ばれ、ナント造船所の最盛期に活躍したマシーン。今は機能していないが、この街の歴史の、重要な1ページとして保存されている。左側に長々と平らなコンクリートの建物が、再開発によって、たくさんのカフェを擁した、バナナの倉庫。右端には、ベガン・セの、青と白に塗られた華やかな製糖工場が見える。
バナナの倉庫の正面玄関。現在は、その名も、"Cargo"というカフェになっている。
カフェ "Cargo"の側面。ここに、"Hangar a Bananes" (バナナの倉庫)と明記されている。
バナナの倉庫内部の様子(1948年)。打ちっぱなしの長方形のコンクリートの中に、ハトロン紙のように丈夫そうな紙に包まれたバナナが、積み上げられている。「これ、全部バナナ?!」という感じ。
トロントムーの岸に埋め込まれた方位図。バナナの倉庫を初めとし、タイタンクレーン、ドュビジョン造船所、ナント造船所、ノートル・ダム・ド・ボン・ポールなど、海運都市ナントのメイン・スポットが書き込まれている。
今回の再開発で、沢山のカフェ群の集合体と化した、バナナの倉庫。対岸にある、Ste.Anne(サン・アンヌ)の丘から見ている。が、横に長いので、広角レンズがないと、全景は入りきらない。
再開発に向けた工事が始まった頃の、バナナの倉庫。あまりに殺風景なコンクリートだったので、
いったい何なのか、疑問さえ抱かなかったのである。倉庫の背後には、現在では撤去されて、もう少し下流に移動された、4色の、ちょっと華奢なクレーンが、city artのように、お洒落に並んでいる。
巨大な、製氷工場。これも、コンクリートの打ちっぱなし。工場の手前には、引込み線の線路が複雑な模様を描きながら、今も、確かな存在感でアスファルトに埋まっている。その線路を伝って行くと、この写真の左手奥に、青と白に塗られた高い煙突の見える、ベガン・セの製糖工場内部にまで、続いている。
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