ピンヒールの靴では歩けないな、と思う。サスペンションの悪い車だと、ゴッゴッゴッとお尻に振動が伝わる。おまけに雨の時には案外滑りやすいからゆっくり歩かざるを得ない。
10センチくらいの立方体は、なんとなく窮屈そうに並んでいて、ところどころ、少しもち上がったり、へこんだり。要するに、“道路”としては機能的とは言えない代物なのだが、パリの古い地域の、曲がりくねった細い道には石畳がよく似合う。
サン・ミッシェル通りとサン・ジェルマン通りとが交差する所、シテ島の南側、セーヌ左岸のこの辺りは、カルティエ・ラタンと呼ばれている。「ラテン語地区」という意味だが、中世では学問と言えばキリスト教研究のこと。学僧たちの教科書である聖書がラテン語で書かれていたので、自ずと授業はラテン語で進められた。だからカルティエ・ラタン。パリ大学発祥の地だ。今ももちろん、ソルボンヌを初め様々な学部が点在し、バカロレア合格率を誇る有名公立高校もあり、昔ながらの本屋さんがあり、まさに「学生街」である。
パリに残るローマ遺跡の横に建てられたクリュニー修道院(現在は中世博物館)を過ぎて、アカデミズムの殿堂にふさわしい堂々たるソルボンヌを横に見ながら坂を上れば、フランスが誇る文化人たちが眠るパンテオンと、その前に対をなす建物で美しく円を描く、石畳の広場がある。そしてその向こうには、パリの守護聖人であるサントジュヌビエーブの墓所のある、サンテティエンヌ・デュ・モン教会の正面と鐘楼が見える。この辺りはパリの中でも一番古い地域の一つであり、石畳もたくさん残っているのだ。(68年の‘5月革命’のときに、学生がサンジェルマン通りの石をはがして投石したことからその後、石畳は急速に減ったらしいが)
その昔、それは私の学生時代で(年齢がばれるからあえて**年とは言わないけど)、長い夏休みを利用して、初めて憧れのパリに来た時のこと。友だちの友だちに、地方都市の素封家の息子がいて、彼はなんと、カルティエ・ラタンの古いアパルトマンで、学生生活を謳歌していた。「ヴァカンスで‘国’に帰るから使っていいよ」と言われ、私はそこを借りた。もう番地はおろか、道の名前も忘れてしまったが、細い、小さな石畳の通りにあった緑色の小ぶりの木戸をくぐって中に入ると、そこもまた石畳の中庭だった。
実際に、そのアパルトマンにどのくらい滞在していたのか、数日だったか、一週間くらいだったか・・・。中庭の奥の隠れ家のようなアパルトマンを出て、緑の木戸をくぐって道にポンと飛び出した時、狭い路地の先にノートルダムの美しい壁面が思いもかけないほど大きく見えて、私は息を呑んだ。小説で読んだパリ、映画に見たパリ、そして頭の中に描いていたパリが寸分たがわずに目の前に現れた・・・というような、強烈な一瞬だった。8月の終わりに、早、秋の気配が押し寄せ、石畳に枯葉が舞った時には、どこからともなくアコーディオンの音を聞いたような気がした。
そのアパルトマンのあたりから、セーヌに向かって、あるいは沿うように、いくつもの小道がある。サン・ジャック通りを横切ってサン・ミッシェルの噴水に抜けるまで、くねくねと続く裏道もまた雰囲気のある場所だ。「古さでは負けないぞ」といわんばかりの、サン・セヴラン教会とか、カフェやクレープ屋。なぜだか、ギリシャ料理店が並ぶ小道もある。日本ではまだギリシャ料理はとても珍しかった(イタリア料理だってさほど知られていなかった)その頃に、お皿を床にたたきつける悪習(?)を知ったのも、ここだった。バターやクリームのフランス料理に飽きてきた胃袋に、海老や魚の、ただ焼いただけのお料理が新鮮だったことも思い出す。
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石畳 フランス語でpavé(パベ)
クリュニー修道院
ソルボンヌ
ギリシャ料理店が並ぶ小道 |