パリ大好き人間の独り言、きたはらちづこがこの街への想いを語ります。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
第38回  光 (その2) 2007.05エッセイ・リストbacknext
 マルモッタン美術館を最初に訪れたのも20歳の時だったと思う。
 クロード・モネという画家が特別好きだった、というわけではない。誰かに聞いたのか、それともたまたま近くにいたからふと気がついて美術館を訪れたのか、そのあたりの記憶はとても曖昧なのだが、マルモッタンはその時から「私のお薦め美術館」の一つとなった。
 『印象、日の出』を最初に観た時のこともよく覚えている。「いいなぁ」と思った。水面を照らす朱色は、私の瞼に焼きつき、いつまでも消えることがなかった。そしてロンドンの国会議事堂の絵はさらにもっと好きになった。逆光の中にかすむ議事堂に、まだ見ぬロンドンを想った。1873年頃の作品である前者が《印象派》という名前のもととなったことなど、その当時は知りもしなかったのだが。
 私にとっては、その後長い間、モネと言えばこれらの2点だった。だから、『印象、日の出』が盗難にあった時は、海の向こうの日本でカッカと怒り、いつの間にか戻ったというニュースに安堵した。もちろん‘教養’として、睡蓮のこともジベルニーの太鼓橋のことも分かっていたし、数多いそれらの絵を、オルセーやオランジュリなどでも幾度となく見てきたが、今でも、前に立って飽かずに見つめるのはマルモッタンのこの2点かもしれない。
ジュール&ポール・マルモッタン

『ロンドン、国会議事堂、テームズ川の反映』



マルモッタン美術館;公園側.
 ラヌラグの公園を抜けてさらに一歩森へ近づいたところに、マルモッタン美術館はある。もともとは貴族の狩の館だったものを1882年にマルモッタン家が購入したのだそうだ。歴史家だった2代目のポールはナポレオン時代の家具調度などを収集しており、そのために1900年代初頭に館を増築した。彼は1932年に亡くなったが、当時の収集家の例に漏れず館と収集品をアカデミーに遺贈、《マルモッタン美術館》が誕生した。
 当初は帝政期の美術品を中心とする美術館だったが、その後、第二次大戦後にルーマニア出身の医者でマネやモネたちの主治医でもあったべリオ博士の遺族が、相続した多くの作品を寄贈したことから、美術館としての幅が広がった。1960年代にモネの息子ミッシェルもジベルニーなどに保管していた父モネの作品を寄贈し、名実共に「モネの美術館」が誕生したのだ。マルモッタンは、館を二分して、全く趣の異なる展示で観る者を惹きつける、小さいながらも貴重な美術館だった。
 さらに1987年にデュエム・コレクションが加わり、1996年には印象派の女流画家ベルト・モリゾーの孫の寄贈によって、家族の日常を描いた油絵やパステル、そしてマネが描いたモリゾーの肖像なども加わり、マルモッタンは、益々充実した宝箱のような館となっている。



旧駅舎
  今でも、ふと気が向くと、ラヌラグまでやって来る。
 昔の鉄道の線路はなくなってしまったが、ボーセジュールの通りも駅舎――今は《ラ・ガール》(フランス語で駅という意味)という名のレストランとなっている――も昔のままで、ラヌラグの公園はいつも変わらない穏やかな空間を提供してくれる。
 メリーゴーランドの周りをわざと大回りして、わざわざ芝生の上の土を踏みしめて、私はゆっくりと公園の景色を楽しみながら、マルモッタンへと歩く。

 その日も地下展示室では、小学校1年生くらいの15人ほどのグループが、数人の先生たちに連れられて、ロンドンの国会議事堂の前の床に座り込んでいた。
 「これは何かしら?」と先生が議事堂の下でキラキラと光る部分を指差す。「海」「セーヌ」「水」子供たちの思い思いの声に、思わず笑みがこぼれる。私も後ろの椅子に座ってちょっと授業参観。
 「そうね。水ね。この水の色は?」
きいろ! しろォ! みどりー! あかぁ!・・・・・・
 子供たちはくったくなく、どんどん答える。そう、テームズ川の水面は水色ではないのだ。
 「どうして、こんなにいろんな色があるのかしら?」先生の問いに一瞬静かになった子供たちだったが、そのうちに誰かが答えた。「光ってるの」

  この偉大な画家は、終生光を追い続けたのだ。
 彼もまた、私の大好きな、あの、雨上がりの光に感動したのだろうか・・・・・・身のほど知らずの私は、大胆に夢想する。
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