画伯とは夫の父・私たち、と、親子2代にわたってのおつきあい。今までも車でパリを走っていて、画伯が絵を描いているところを見かけたのは一度だけではない。だが、いつも、車を止められるような場所ではなく、声を掛けるにも物理的に難しい状況ばかりで、残念に思っていたが、今度ばかりはなんたる幸運! 私は、画伯の背中をぽんぽんと叩いて、「先生、何描いていらっしゃるの?」と声を掛けた。画架には、美術館入口に隣接する美しい給水泉の下絵が広がっていた。
「ほら、詩人の、あのジョルジュ・サンドの恋人だった、若い詩人の・・・・。あの人が、そこの奥に住んでいたんですよ」
えーーっと、誰だっけ?
私はその名前をとっさには思い出せず、画伯と別れてからしばらくの間、頭の中には意思の強そうな濃い眉毛と瞳を持った、魅力たっぷりのサンドの顔がこびりついて離れなかった。そして、美術館での用事が終わった頃、ようやく詩人の名を思い出したのだが、小雨が降り始めていた通りに、すでに画伯の姿はなかった。
画伯がその時取り組んでいたものは、1749年に造られた美しい彫刻の施された、フォンテーヌ・キャトル=セゾン(『四季の泉』)である。そして、くだんの詩人、アルフレ・ド・ミュッセ(1810−1857)が1824年から39年まで住んでいたのは、その泉の奥、現在は、マイヨール美術館の一部になっている所だったようだ。裕福な家庭のお坊ちゃんだから、ミュッセがこの泉で水汲みをしたことなどないだろうが、手ぐらいは洗ったかもしれない。酔い覚ましの水を一口・・・なんてこともあったかもしれない。実際、早熟の天才、美男の誉れ高いミュッセは近隣で催される文学サロンに足繁く通っていたようだし、6歳年嵩のサンドとの苦しい恋をし、多くの詩や戯曲を書いたのがまさにここであった。
あまりにロマンチストなために社会の波に乗り切れなかったミュッセの後半生は別にしても、19世紀、ロマン主義の人々は、多いに物申した。そして、それは当時のフランス社会の流れにも大きく影響した。伝統的な古典主義と対峙するように、フランス革命の精神である「自由・平等・博愛」を今一度確認するかのように、彼らは叫んだのだ。
そして1830年7月がやってくる。フランス革命を経てもなお、ナポレオン、王政復古と、揺れ続ける時代の中で、ブルボン家の血をひくオルレアン公ルイ・フィリップを担ぎだし、シャルル10世を退位させ、‘民主的に’次の「王政」を作り上げたのは、ジャーナリストや学生や労働者など一般市民たちである。
この「七月革命」を讃えてロマン派はどんどん作品を作る。ロマン派が頑張るから社会が動いたのか、社会が動くからロマン派が活躍するのか・・・卵と鶏のような状況が世の中に多くの傑作を生み出した。大変な時代だったのだろうけれど、それはとても素晴らしいことかもしれない。少なくとも、後世の人々の芸術観を豊かにしてくれることは確か。
その年、ベルリオーズ(1803−1869)の幻想交響曲の初演は大成功をおさめた。ヴィクトル・ユゴー(1802−1885)が、今も映画やミュージカルに取り上げられている、醜い鐘つき男カジモドとエスメラルダの物語を歴史小説『ノートルダム・ド・パリ1482年』として発表した。
そして、翌年のサロン展(官展)に出品された油彩画に、世界史の教科書や美術の教科書に載っている『民衆を導く自由の女神』がある。ルーブル美術館に展示される、ロマン派の最高傑作の一つといわれるこの大きな絵画の前には、いつもたくさんの鑑賞者がいるが、フランスと言えばこの絵を思い出したり、三色旗や自由の女神をイメージする人も多いのではないだろうか。作者はご存知ウジェーヌ・ドラクロア(1798−1863)である。(次号に続く)
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赤木画伯
ミュッセ
マダム・ド・スタール
民衆を率いる自由の女神
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