セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
オリガス先生プロフィール
鯨井佑士・宇都宮大学教授沖恒夫波多野宏之萩原茂久・独協医科大学教授今井(旧姓 松井)元子・常磐大学非常勤講師佐藤(旧姓 細川)夏生・神奈川大学教授大谷尚武・図書館職員鈴木宏昌・会社員鈴木(旧姓 斎藤)公子蒲田耕二・音楽家評論家菅原(旧姓 仙波)恵美子・同窓会職員大内呉緒新川雅子荻野徹・銀行員長谷川(旧姓 大谷)摂子金澤脩介・銀行員芦川誠三生方 弘深野龍爾

オリガス先生を待たせた話 (鯨井佑士・宇都宮大学教授)
  外語時代のオリガス先生については皆さんが書いておられますので、フランスでの思い出を書きます。私はフランス政府給費留学生として1971年から1973年までパリに滞在しておりましたが、その間にオリガス先生にお目にかかる機会がありました。最初に再会したのは、確か日本大使館が主催したパーティーに出席したときだったと思います。このときは早稲田の小林茂氏と一緒で、彼もオリガス先生の教え子でした。私たちのことを覚えていてくださり、声をかけていただきました。私はちょうどそのとき、偶然のことからソルボンヌのある教授につかまり、川端康成の『古都』について発表する羽目になっていたのですが、そのことを先生に話すと一度自分を訪ねてくるようにとのことでした。この年の比較文学のアグレガシヨンの課題にこの作品が選ばれていたのですが、この作品を推したのは多分先生だったと思います。この小説に関する先生のすばらしい作品論(ソルボンヌの講義録)があります。
 さて、約束の当日勇んで東洋語学校(「ラング・ゾ」と呼んでいました)のドーフィーヌのキャンパスに行きました。10時か10時半の約束だったと思います。研究室がどこにあるかわからないので、事務で聞いたのですが、あまり要領を得ませんでした。それでも、とにかく待っていました。ところが、30分過ぎ、40分過ぎても先生の姿が見えないのです。それで、変だと思い、もう一度問い合わせたところ、今日はオリガス先生は授業がないのでこちらには来ない、ここではなくリール街にある本部のほうではないかと言われました。ここで初めて、自分が早とちりをしていたことに気づきました。東洋語学校だからドーフィーヌだと思い込んでいたのです。大あわてでリール街に駆けつけました。約束の時間よりもすでに1時間以上すぎていました。門の前にオリガス先生の姿がありました。私がいつまでも来ないのでわざわざ外に出てきてくださったのです。私は、もちろん、訳を話し謝りました。怒られることを覚悟していたのですが、先生は、一言も非難がましいことをおっしゃらずに、昼食を一緒にするように言ってくれました。(もう12時に近かったのです。)そのとき、何を話したかあまりよく覚えていません。それよりも申し訳ない気持ちでいっぱいでした。先生が大変な勉強家で、時間をいかに大切にされているかをよく知っていましたので。こんな無駄な時間を過ごさせてしまったこと、私の生涯の痛恨事です。思い出すと今でも心が痛みます。
 ともあれ、その後、フランス滞在中、私はオリガス先生の授業を聴講させていただくことになりました。徳田秋声の『あらくれ』の講読の授業でしたが、格調の高い名講義でした。ちょうどこの時期パリに来ておられた篠田浩一郎先生も出席しておられ、一緒にフランス人の学生を前に発表をしたことなど懐かしい思い出です。
あれから30年。先生の訃報に接し、本当に悲しい思いです。以後お目にかかる機会はなかったのですが、先生は学者の一つの理想型として常に私の心の中にありました。そして、今後とも先生は私の心の中で生き続けるでしょう。先生のご冥福を心より祈りつつ筆を擱きます 。

▲このページのTOPへ

落第生の見たオリガス先生 (沖恒夫)
 在学当時、フランス語への興味が日々薄れていき、何とも憂鬱な日々を送った。卒業10数年経っていたと思うが、時折、朝倉先生を訪ね、勝手なことを喋っていた。ある時、これは、他の先生だったかと思うが(イヴ・サン・アリュー先生?)ジャン・ジャック・オリガス先生が雑誌「ふらんす」に中原中也について書いている、と教えていただいた。私が中也を愛読していたとご存知だったからだろう。
オリガス先生が赴任されて間もない頃、新宿歌舞伎町の道をふらふらと朝帰りの足を歩ませていると、通りに面した大きな喫茶店の窓際で、一人新聞を読んでおられる、白いシャツ姿の、小柄なオリガス先生を発見した。勿論私はそのまま通り過ぎたが、私の記憶には、先生の姿は、外国の文化を研究する、若い真面目な学者の典型として永く残った。

▲このページのTOPへ

オリガス先生 (波多野宏之)
 20年も昔のことですが、ポンピドーセンターの図書館で研修生をしていたことがあります。世界各国の言語が学べるラボラトリー(当時はメディアテーク・ド・ラングという部門)でよく日本語を勉強している若いフランス人青年と仲良くなりました。彼はINALCOのオリガス先生の教室にも「もぐり」で通っている由。もちろんお許しは得ているわけで、ある日、いっしょに授業に参加させていただきました。日本での先生よりも、穏やかで和やかな雰囲気があったように思います。さて、その青年はもともとコンピュータエンジニア。いまは日本で日仏語の教育ソフトを開発しています。先生は、こんな人も育てられたのです。本当に勉強しようという学生には真摯に対応してくださる。コレージュ・ド・フランスの故ベルナール・フランク先生もまた、そのようなお人柄でしたが、フランク先生に続き、日本人以上に生真面目なフランスの碩学が逝かれたことが残念でなりません。オリガス先生には、フランス語を習い始めた最初期に、フランス(人)にもっと学びたい、そんな精神的な何かを植え付けていただきました。昨今、そう思わせるようなフランス人が少なくなったと思うのは、こちらが年をとり、心も貧しくなったからだろうかと自問することがあります。

▲このページのTOPへ

オリガス先生哀悼 (萩原茂久・独協医科大学教授)
 それほど長期にわたって教えを受けたわけではありませんが、オリガス先生は、格別印象に残る教師でした。授業科目は和文仏訳で、夏目漱石の「夢十夜」の一節や、新聞などの時事的なものも教材として、ほんとうに真剣に教えていただきました。言葉のまわりに思考が渦を巻きながら中心に迫っていく感じで、生半可ではない頭脳の持ち主であることが直感できたのです。
 そのなかで強烈に記憶にとどまっている場面がひとつあります。それは、あるときの授業がひとわたり終わって、同じクラスの者が次のように言った時です。
 「先生、今度の休みに先生の所へ遊びに行ってもいいですか?」
 日本的な空気のなかに安住している私たちには、胸に刺さるような先生の答えが返ってきました。
 「それは困ります。私は日本に遊びに来ているのではない、勉強しに来ているのだから。そういう時間はありません。」
 瞬間、教室の中はしんとしてしまいました。処世術を拒否した、ひとりの真摯なフランス人がそこに存在したのです。しばらく経って、私の心は洗われた後のように、さわやかな気に満たされていました。
 オリガス先生は、今や天国にあっても勉強を続けられているのでしょうね。
いや、そうあって欲しいと心から念じております。

▲このページのTOPへ

オリガス先生を悼んで (今井(旧姓 松井)元子・常磐大学非常勤講師)
 この度はオリガス先生のご訃報に接し、まだまだご活躍できる若さでお亡くなりになったことを、とても残念に思います。
 私が先生に教えていただいたのは、今から約40年も前の東京外国語大学フランス科の会話の授業でした。一番印象に残っているのは、先生の「将来何になりたいか」という質問に、ある男子学生が「vagabond(浮浪者)になりたい」と答えた場面です。先生はとてもお怒りになられ、学生のそばに行き、真剣に問い詰めておられました。男子学生はふざけて答えたのではなく、当時の私たちのクラスの雰囲気を象徴するような答えでした。
 そのクラスは2浪以上の男子学生が多く、大人っぽく、当時の社会風潮とも関連して虚無的、退廃的な空気が支配しておりました。受験勉強からそのまま大学での勉強に取り組もうとしていた現役入学の私は、フランスを理解するには、このクラスの学生たちのような感性が必要らしいと思い、自分の子供っぽさを歎いておりました。さらに、「フランス人はsincerite(真心)には価値をあまり置かない」というある日本人の先生の言葉にも、誠実さに重きを置く自分の価値観が揺すぶられ、フランス科で学ぶことに居心地の悪さを感じておりました。それがオリガス先生の真剣に怒られる姿を見て、フランス人も一様ではないし、私は私の価値観を出発点に、周りから他の価値観を吸収しながら進んでいけばよいのだと悟りました。
 先生の真面目なお人柄を懐かしく感謝して思い出すとともに、心からご冥福をお祈り申し上げます。

▲このページのTOPへ

『夢十夜』のオリガス先生 (佐藤夏生・神奈川大学教授)
 もう40年も前の日本は、今とは全く別物の日本であった。
1ドル360円の固定レートで、フランスにたやすく渡航できる状況ではなかった。憧れだけが若い学生たちをつき動かしていた。
 東京にフランス人は多くはいず、ある時などフランス人教師が大学に一人もいなくなってしまったことさえあった。そこへ颯爽と現われたオリガス青年。その生き生きとした熱心な授業は、今も忘れることはできない。
 会話や『ラモーの甥』の講読も学んだ。とくに印象に残っているのは、漱石の『夢十夜』のテームの授業である。「。。。細長い一輪の蕾が、ふっくらとはなびらを開いた。」 この行を覚えているのは、当てられたからだ。
 授業中はフランス語しか話さない。しかし授業が終わって質問などに寄って行くと、この先生は見事なまでに日本語しか話さなかった。例外はなかった。
日本語に自分の人生をかけた人の根性に常に圧倒されていた。
このような「厳しさ」とともに、最終授業にはアルザスのご住所を学生たちに書かせる「大きさ」と「温かさ」もあわせ持っていた。
 1985年5月に久しぶりのパリへシンポジウムを聞きに行った折、思い立ってINALCOへ電話をしてみたら、先生に再会することができた。
20年以上たっているのだし、数多い学生の一人であったわたしの顔を覚えておられたか、どうか。しかしかつての教え子に淡々と、INALCOにおける日本語教育の話を色々して下さった。ご多忙であったにちがいなく、今思い返してみて、改めて感謝の気持ちでいっぱいである。

▲このページのTOPへ

J・ジャック・オリガス先生の思い出 (大谷尚武・図書館職員)
 外語大仏語科昭和37年入学時より、前期課程の2年間 (愚生は2年で留年したから3年間か?)仏語会話の初歩をオリガス先生からご指導いただきました。私事ですが、その頃演劇活動に凝っていて、仏語の授業をエスケープばかりしていて、たまに何かのはずみでオリガス先生の授業に出て、先生のあのブルーのシャープで優しい眼差しに視線が合ったりすると、何かフランス語で質問されそうな予感がして、視線を絶対合わせまいと努力していたのも、劣等性ならではの恥ずかしくも懐かしい思い出です。
 先生が母国へ帰国される折、37,38年入学組と2,3年先輩達(その中にJ・リュック・ゴダールに師事し、後に映画評論家となった山田宏一もいたと思います.)とで先生の送別会をやりました。(会場の記憶はありません)その折、ちょうど秋の学園祭の仏語科の語劇でJ・ジロドウの「ベルラックのアポロ」という一幕物を、フランス語の達者な(故)山岡久修と愚生が共同演出している際でもあったので、オリガス先生への餞別の言葉のつもりで、「外語伝統の語劇をしっかりやります。」と日本語で(勿論!)決意表明したのを不思議に覚えています。オリガス先生はその時、あの美しい澄んだ眼差しで優しく微笑んでくださったように見受けられましたが、同席していた山田宏一氏は何の存念か「ワハハハハ」と笑っておりました。あの時の映画評論家氏の笑いの意味は40年近く過ぎた今も、愚生にとってはなぞの一つであります。
 二十歳前のわれら未熟な東京の仏語学徒の耳に、憧れのエコル・ノルマル・シュペリユールの真正にしてスタンダードなフランス語の美しい響きを、永遠に消えぬ記憶として刻み、同時代のパリ文化の息吹を熱く吹き込んでくださった俊秀の若き学究の姿が、四十年経った今もありありと私たちの脳裡に甦ります。
オリガス先生・・・・・ご冥福を心より、はるか東洋の地横浜の一隅からお祈りいたします。ありがとうございました。

▲このページのTOPへ

オリガス先生を偲んで (鈴木宏昌・会社員)
 我々のクラスは、オリガス先生が来日されて授業を開始した最初のクラスのひとつだったと記憶する。私自身は外語に入ってからフランス語を始めた部類だったので、英語との違いの混乱もあり、授業には辛いものがあった。
 そんな日々の中、ある日オリガス先生のクラスで和文仏訳があった。どんな文章だったか前後のことはすっかり忘れてしまったが、皆が手をあげてある形容詞の単語の候補を挙げていた。なかなか先生のOKが出ない。私には自信がなかったが、皆からまだ出ていない単語を思いつき、"agreable" と答えたところ、先生が "Voila ! "と言ってくださり、文章が完成したのだった。その時の先生の笑顔が忘れられない。私にとっては後にも先にもこんな事はこの時だけだったが、少しフランス語が好きになった一瞬だった。
先生のご冥福を祈ります。

▲このページのTOPへ

オリガス先生 (鈴木(旧姓斎藤)公子 )
 外語で約2年間教えを受け、スタンダールのMEMOIRES D'UN TOURISTEやディドロのLE NEVEU DE RAMEAU、仏作文をやりましたが、その授業の内容の深いこと!哲学、歴史、美術その他の分野にわたり、知識不足、語学力不足の私は大変でしたが、楽しく、忘れられない授業でした。真剣に私たちの話しに耳を傾け、どんなに時間がかかってもじっと答えを待っていてくださる。苦し紛れに答えたものでも、一呼吸おいてPas mal. とか、ウーン良いですね、という感じでBien.とか。あるいは、我が意を得たり、といった感じで実に嬉しそうにTres bien.と仰有ったりしたご様子が忘れられません。
生徒達の力を信じて、私達の脳味噌をフル回転させ、想像力、理解力を最大限まで引っ張りだす先生の情熱溢れる授業を通して、私たちはフランス語だけでなく、広大なフランス文化、学問への態度、教えることの意味の一端を学んだ気がします。先生の授業は40年近く経った今でも鮮明に覚えていて、先生に教えて頂いて幸せだったと思います。
ご冥福をお祈りいたします 。

▲このページのTOPへ

オリガス先生のこと (蒲田耕二・音楽家評論家)
 外語でオリガスさんに指導していただいた日々も、すでに遠い昔の思い出になりますが、一つだけ鮮明に覚えていることがある。最初の授業の朝、先生はいきなり黒板に「薔薇」と書かれた。われわれ日本人学生は、たとえ読めても、もはや書くことはできなくなっていた字です。
 あのころの先生は25?6歳だったはずだから、若い気負いもあったかも知れない。しかし呑気なわれわれとは、勉学に対して気合いの入れ方が違う、と実感させる効果は確実にありました。
 聞けば、その前に早稲田で文字通り寝食を忘れて勉強に没頭されていた由。
日本を愛されたこと、日本文化紹介に尽力してくださったこと--それら以上に、あれほども激しく熱い情熱を燃やされたこと自体に、人間として深い畏敬の念を覚えます。
 合掌

オリガス先生プロフィール
鯨井佑士・宇都宮大学教授沖恒夫波多野宏之萩原茂久・独協医科大学教授今井(旧姓 松井)元子・常磐大学非常勤講師佐藤(旧姓 細川)夏生・神奈川大学教授大谷尚武・図書館職員鈴木宏昌・会社員鈴木(旧姓 斎藤)公子蒲田耕二・音楽家評論家菅原(旧姓 仙波)恵美子・同窓会職員大内呉緒新川雅子荻野徹・銀行員長谷川(旧姓 大谷)摂子金澤脩介・銀行員芦川誠三生方 弘深野龍爾

オリガス先生 (菅原(旧姓仙波)恵美子・同窓会職員)
 オリガス先生のご逝去を新聞で知り驚きました。外語で教えを受け強く心に残る先生の1人だからです。地方から外大に入学し、初めてフランス語を学び、フランス人と直接話したことも無い学生でしたから教えを受けたというのはおこがましい限りです。会話の授業と申しましてもいわゆる日常会話ではありませんでした。覚えた範囲の言葉で映画や建築物、文学などテーマを決めて話させる授業でした。駒込にある古川庭園の設計者のことも話題になりました。その頃先生は漱石の研究をなさっていらっしゃいましたが、読みの深さ、難しい漢字を使われるのにも驚いたことを思い出します。
 あれから多くの年数が経ち、時折先生のご活躍のことは伺っておりました。新聞紙上で再会をしたことになってしまいましたが、先生のお若い頃のお姿を思い起こしています。ほこりだらけになった昭和37年発行の阿部良雄著『若いヨーロッパ』を開きますと、オリガス先生の手首を折り曲げて口元にあてている写真があります。教壇でじっと話を聞いてくださったときもそうでした。そのままのお姿だと鮮明に想い出がよみがえってきます。
 先生は、阿部氏の言葉どおり「…同じ言葉をしゃべり、どんな極端な意見の間にも、それがこの同じ言葉で言い表される限りに於いて、対話の生ずる余地がある。…銘々勝手な事を考えているもの達が論理の明晰性を尊重するという最小限の約束だけは守っているので話が通じなくなる心配がないこと・・・」を示してくださり、それはノルマリアンのフランス的志向秩序だったと今にして思い至った次第です。
先生のご冥福をはるかよりお祈りいたします。

▲このページのTOPへ

オリガス先生 (大内呉緒)
 私は昭和37年に外語のフランス科に入学しましたが、初年度は山に夢中になって留年したので、「幸運にも」2年間、先生のお教えを受けることができました。私が山仲間の男子学生と学生結婚したとき、先生は心をこめてお作りになったと推察されるカードを送って、祝福して下さいました。
翌年、その前年には不可がゾロリと並んだ専攻語学の成績表は、すべて優で埋まっていました。オリガス先生の科目の評価が高かったからだと思います。
それまで猶予されていた兵役のために、先生がフランスへ帰国なさる時、私は生まれて間もない子供を育てながら、かろうじて学校に通っている状態で、先生の送別会に出席できず、最後のお授業のあと、教室前の廊下でお別れのご挨拶をしました。先生はじっと私の目をご覧になって、体に気をつけて勉強を続けるようにと、励ましてくださいました。私が厳しい状況で必死で勉強していることをご存知でした。先生は日本語ばかりでなく、日本人の心も身に付けておられたように思えます。
私はその後、一人で子供を育てながら他大学の大学院に進み、大学教師としての一生を送る筈でしたが、非情な運命に進路を捻じ曲げられて、大学を去りました。その後はもう、苦難の人生だったとしか言いようがありません。
あれは何かの国際会議のときでしょうか、新聞に先生のお写真と記事が出ていて、私も大学人であり続けたならば、このような機会に先生にお目にかかれただろうにと、淋しく思いました。
それでも、どれほどむごい人生でも、それが終わる前には僅かな慰藉が与えられるのか、最近、外語山岳部50周年の機会に、四十年を隔てて尚変わらない友情に触れることが出来ました。これはささやかな救いでした。
私の一生ももう長くは続かないでしょう。先生にも遠からず再会できると思います。その日を楽しみにしています。それまでの、しばしのお別れです。


大内さんがクラスの送別会の写真を送って下さいました。

▲このページのTOPへ

オリガス先生 (新川雅子 )
 私が先生に教えを受けたのは1年足らずでした(3年の途中で留学のため停学しましたので)。当時先生は正に紅顔の(美)青年、勤勉な青年そのものとの印象を受けました。生徒達とわずか2?3歳しか違わない若い先生だったとは!
 ゼロに近い私達のフランス語に比べ先生の日本語の学究の深さは当時私達の想像以上のものであったと思います。先生の和文仏訳の授業はその真摯なお人柄とともに私の心に今日まで深く残っています。
 15年程前に駐日フランス公使(当時ジャック・ラング文化相を思わせる新人類の外交官でした)主催の夕食会に招かれた時のこと、公使は中学生の御子息共々千代の富士の大ファンでしたが、日本語には初心者、目下特訓中でした。公使はオリガス教授のことはつとにご存知でした。日本語の修得には気の遠くなるような努力と一徹の姿勢を貫いてこそと畏敬の念をもって語られた事を思い出します。

▲このページのTOPへ

オリガス先生 (荻野徹・銀行員)
 同級生からオリガス先生(と言うより私にはオリガスさんなのですが)の訃報を聞く数週間前、何故か先生のことを思い出していました。先生の最後の授業が終ってから、持っていたSTANDARD の辞書の後ろの余白に別れの言葉を書いてもらったことを。 Au moment de nous separer で始まる5行か6行程度の文章でした。その中には私の名前も挿入されていて、「ああ、これは僕のためのものなんだ。」と満足感に浸ったことを覚えています。ただ、日付を書き込んでくれなくて代りに Par un jour brumeux となっているのがちょっと不満で、後日自分でその日にちを鉛筆書きしました。同じようにしてもらった学生がもう一人いました。確か1年か2年下の中島君だったのではないかと思っていますが、彼は卒業後ジャーナリズムの道に進み大森実の弟子となってベトナムで取材中に亡くなったと聞いております。(若し間違っていたら大変失礼。ご存知の方訂正して下さい。) その中島君と西ヶ原4丁目の停留所へ向かう道すがら、オリガスさんはきっと偉くなる、若しかしたら文部大臣になるんじゃないの、そうしたら俺達の持ってるこの辞書は大変なものになるよ、それにしても日付を入れてくれなかったのが心残りだな、などと話し合ったものです。40年も前のことなのですね。
 今私は SOCIETE GENERALE というフランスの銀行の東京支店に勤めています。ここに私からみると4歳程年下で、日本語の達者なフランス人が居りまして、どことなく気が合って仲良くしているのですが、実はなんとこの男、東洋語学校でオリガスさんから日本語を学んだという人物なのです。世の中狭いといいますが本当にその通りです。彼の言うところでは相当厳しい先生だったようです。我々のフランス語の授業にはそんな印象は少しも残っていませんが - - - 。授業といえば、漱石の「夢十夜」の或る部分の仏訳や「梅が香にのっと日の出る山路かな」の翻訳をした時間のこと、それから先生が感に堪えないといった風情で長谷川一夫の雪之丞変化 について熱く語っていたこと等、次々と楽しかった授業のことが思い出されてきます。オリガスさんも我々も若かったときのことです。それにしても、65は早すぎます。ご冥福をお祈り致します 。

▲このページのTOPへ

ジャンジャック・オリガス先生の思い出 (長谷川摂子)
  石川啄木の『時代閉塞の現状』と言う作品の存在を私に始めて教えてくださったのはオリガス先生。ヨーロッパの知識人であるオリガス先生が、どんなに日本文学に深く潜り込み、時代とその精神を読み取ろうとしていたか、私は驚愕しました。
 授業での先生のお話は文字化すればそのまま完成された論文のようでした。スタンダールの日記の授業、忘れられません。レクチュアーはかくあるべきと言う理想.形が私の頭に埋め込まれました。今でも人前で一、二時間、話すことがあると、オリガス先生にどれだけ近づけたかな、まだまだだな、などと時々考えます。

オリガス先生プロフィール
鯨井佑士・宇都宮大学教授沖恒夫波多野宏之萩原茂久・独協医科大学教授今井(旧姓 松井)元子・常磐大学非常勤講師佐藤(旧姓 細川)夏生・神奈川大学教授大谷尚武・図書館職員鈴木宏昌・会社員鈴木(旧姓 斎藤)公子蒲田耕二・音楽家評論家菅原(旧姓 仙波)恵美子・同窓会職員大内呉緒新川雅子荻野徹・銀行員長谷川(旧姓 大谷)摂子金澤脩介・銀行員芦川誠三生方 弘深野龍爾

オリガス先生の思い出 -同時期を東京とパリで- (金澤脩介・銀行員
 パリで言葉を交わした後、会うチャンスがないまま30年の年月が流れたフランス科のクラスメート箱山(旧姓、津田)さんから突然「桃の節句」(3月3日)に海外からEメールが届きました。懐かしく、楽しい便りのはずが、それはオリガス先生のご逝去を知らせる悲しい内容のものでした。
私はオリガス先生にとって良い教え子ではなかったと思いますが、東京外語大1年の頃に舞い戻って「在りし日の先生の面影」を偲び、記憶の糸をたぐりながら断片的なシーンを回想することで、先生のご冥福を心よりお祈り申し上げたいと思います。

 フランス語には馴染みの薄い地方(秋田県大館市)出身の私にとっては、大学に入学して初めて習うフランス語会話の授業は「東京弁」(標準語)会話練習と共に、骨の折れる時間でした。オリガス先生は、最初にお目にかかったフランス人教師ということで特に印象深く記憶に残っています。2年目以降は、マエス先生(カナダ系フランス人かフランス系カナダ人?)、ジェルトフェール先生、短期間でしたがピンチ・ヒッター的に教えて下さった美人のアニー木内先生、アンペラトリス先生が今思い浮かぶフランス科在学中の外人教官でした。
先生が「良心的兵役拒否」の思想の持ち主だったかどうかは判りませんがCooperationで1?2年の期間で日本での教職(東京外語大フランス科教官)に就かれていたと記憶しています。最初の自己紹介で先生が「緑の黒板」に、チョークでチンマリしたアルファベット文字でJean-Jacques Origasと書かれた時は、珍しい苗字と思想家ルソーと同じ名前だなあと単純にそう思いました。

先生は日本語の他に中国語も勉強しておられ、文学では確か夏目漱石の研究をしておられたと記憶しています。「樋」(とい)を黒板に手書きで非常に難しい旧漢字でご披露され、日本人でもなかなか書けない画数の多い漢字を書かれたことで大変印象に残っています。見るからに聡明で、事実大変学殖の深い方だったという記憶があります。

一方、秋田(大館?)弁のなまり(アクセント)が抜けず、発音が特に苦手で出来の悪い私は授業中なるべくオリガス先生と視線を合わせないよう苦労した記憶があります。視線が合うと自信のなさを見事に見破って、必ずといっていいほど「当てる」のです。
私はPardonという「rの発音」をクラスで何度も発音練習させられたせいか、つい先日の如く、鮮やかに耳に残っています。また色白で端正なお顔立ち、スラリと長身のオリガス先生は、授業では外見とは異なる妥協を許さない厳格な面もお持ちで、時にそれを強く感じさせられることもありました。

卒業してから数年後、私が勤務先(当時、三井銀行)のフランス・トレーニーとしてパリ大学(ソルボンヌ)とオペラ座近くのBerliz語学学校でフランス語の研修を受けていた当時、箱山さんがフランス政府の給費留学生(日仏比較文学を専攻)として、(当時箱山さんは結婚していましたが、夫君を日本に残し)単身で勉学のために来仏していました。パリ大学では修士論文(比較文学)に取り掛かっていました。
箱山さんはパリ郊外の大学都市(Cite Universitaire)の学生寮に寄宿中で、キャンパス内やパリ日本館を案内して貰った記憶があります。私は滞仏中にオリガス先生にお会い出来るチャンスはありませんでしたが、箱山さんにフルコースの学食(確か当時6〜7フラン@70円)や大学院修士の授業に案内して貰ったことが、オリガス先生が修士論文の最終審査官の一人だったという説明と共に、懐かしく思い出されます。先生も箱山さんのことを良く記憶していてくれて、箱山さん自身も「修士論文の準備作業は大変だが気持ちの上では楽です。」と言っていた気がします。日本(文学)通のオリガス先生はきっと外語大教官時代の「優しさと厳しさで、暖かく」比較文学のご指導をされたのだと思います。。

▲このページのTOPへ

オリガス先生の思い出 (芦川誠三・会社員
 エコール・ノルマル出たての俊秀が、初めて接する日本人向け授業は恐らく、我々のクラスではなかったかと思いますが、私にとっても、初めてのフランス人であり、生のフランス語でありました。
 ある日の授業のこと。ちょうど、映画、シベールの日曜日( sibell ou les dimanche de ville d'avrey)の封切られたときで、私はそれを話題に持ち出したものの、なかなか、ニの句の次げないのを、オリガス先生、そのくぼんだまなこからの、優しい視線でじっと待ってくれたときの沈黙の長さ、また、振り向いたときの、フランス人にしては胴長のがっしりした後ろ姿が、38年後の今、鮮やかに蘇ってきます。
 先生は、映画の話題が好きで、その時は、日本映画論に発展し、黒澤の「いきる」を題材にとうとうと語ってくれました。でも、いつもそうですが、興にのると、なぜか日本語に傾いてゆき、日本文化について新たな視界を広げてくれることの多かった授業でした。
 

▲このページのTOPへ

オリガス先生の思い出 (生方 弘
 大学1年の6月頃だったか、下校時に都電の西ヶ原駅で、たまたまオリガス先生と一緒になったことがありました。電車が来て、「お先にどうぞ」と先を譲ろうとしたわたしに、先生は "Apres vous" とおっしゃってニッコリほほえまれました。あのフランス語と笑顔を忘れることはないでしょう。合掌…。  

▲このページのTOPへ

オリガス先生の思い出 (深野龍爾
 私は1960年代に先生が教えていらっしゃった東京の大学で、フランス文学の手ほどきを受けました。授業はアンドレ・マルローの小説についてでした。先生はこの作者が、その生きた時代、社会にどのように関わったか、を考慮して、分析しなくてはならない、と教えて下さいました。当時先生はまだお若かったけれど、真摯に研究と授業に打ち込んでおられました。先生は私たちにどう行動すればよいかまで、教えてくださったように思われます。私の一生の中で出会った、忘れ得ぬ人の一人です。  

オリガス先生プロフィール
鯨井佑士・宇都宮大学教授沖恒夫波多野宏之萩原茂久・独協医科大学教授今井(旧姓 松井)元子・常磐大学非常勤講師佐藤(旧姓 細川)夏生・神奈川大学教授大谷尚武・図書館職員鈴木宏昌・会社員鈴木(旧姓 斎藤)公子蒲田耕二・音楽家評論家菅原(旧姓 仙波)恵美子・同窓会職員大内呉緒新川雅子荻野徹・銀行員長谷川(旧姓 大谷)摂子金澤脩介・銀行員芦川誠三生方 弘深野龍爾

オリガス先生を偲ぶ |田島先生を偲ぶ

【net@nihon.sa】
Copyright (c)2002 NET@NIHON.All Rights Reserved
info@mon-paris.info