セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
田島先生プロフィール
内田 博史 大川 起示子大谷 尚武金澤 脩介波多野 宏之間山 周子三澤 茂富田 和義西原是人吉田 親幸箱山富美子

田島 宏先生 (内田 博史)
そのさらっとした温厚な人柄は皆さんがお書きになるでしょうが、やはり、田島先生といえば、私にとっては、フロベール、「ボバリー夫人」。
  フランス語の勉強になったかは忘れましたが、あの田島先生の丸顔とフロベールの世界、アンマッチのようで、実は江戸の小粋さとフランス片田舎の率直さのようなものが、マッチしていたなあと今は感じています。
  我々も、もうじきリタイアして、自由の身。何をしようが、どこをふらつこうが、自分の身。率直に自分と自然を結びつけて生きていきたいと思います。ゆっくり、スタンダールやフロベールやルソーやモンテーニュを読むのいいなあ。フランスやアフリカやチェンマイの風に吹かれるのも良し。
  田島先生、青春永続剤≠ありがとうございました。

田島先生との初めての出会い (大川 起示子)
 外語は当時二期校で合格発表が4月に入ってからでした。すでに早稲田大学に入学手続きをし、入学式にも出ていた私は、「当然、外語にするよね」という親の意見にスンナリ従うには抵抗がありました。
  恐らくそんな学生が多かったのでしょう、入学相談日という案内があって出かけて行きました。そこでお目にかかったのが田島先生と家島先生のお二人でした。お二人ともニコニコとおやさしそうな笑顔で話しを聞いてくださり、わたしが雙葉出身というのがわかると、家島先生が「うちの娘も、今年雙葉を卒業して慶応にいきましたよ。私立だった人は早稲田の方がいいかもしれませんね」とおっしゃるのを田島先生はうなずいて同意していらっしゃいました。
  結局、外語を選んだのですが、余談ですがここでもう一人、悩んで相談に来た女性がいました。彼女はあとで早稲田に決めたと知らせて来てくれましたが、杉並の上井草に住むチャーミングな人でした。その後早稲田大は大学紛争が激しくなりどうしたかなと思います。そしてあの時外語を選ばず早稲田に行っていたなら、その後の私の人生も全く違っていたものになったでしょう。ゲームのようにもう一つ用意されていた人生のコースが見えるなら、のぞいて見たい気がします。

田島 宏先生を偲んで (大谷 尚武 F42卒)
 「メルシー会」の田島先生追悼文集に、縁あって小文を寄せる機会が持てました。
今年の2月初旬、箱山(富)さんからのメールで先生のご逝去を知り、宝仙寺での告別式に列席させていただきました。     
  私が卒業したのは昭和42年(1967年)で、先生の略歴を拝見すると、私が在学した1962〜1967年の間に、先生は助教授から教授に昇任されています。卒業後は長い間お目にかかる機会はありませんでしたが、昭和57,8年頃から(記憶は定かではありません)仏訳会社を経営している松浦(宏)氏や日鉱エンジニアリングの小笠原氏などが幹事になって、昭和42,43年仏科卒業生の同窓会が何度か開かれまして、その席で岩崎先生と共に出席されていた時にお目にかかれました。
  直近の同窓会は本石町の英国風パブレストラン「うすけぼー」に、ご夫妻でお見えになった時でした。(2002年5月) その時もあの円満な笑みに溢れた「福顔」で接していただきました。
  在学当時の先生のご印象で、思い起こされることが三点あります。
サークル活動で授業をエスケープばかりしていた私が、たまたま田島先生の授業に出た際、昨年フランスで物故されたJ・ジャック・オリガス先生が初めて外語大に赴任された日、西ヶ原の都電停留所か国鉄巣鴨駅の駅頭かに田島先生が迎えに行かれた時の出会いの会話“エテヴ ムシユウー オリィガス?”
  この一言は、当時の未熟な私にとって、初対面の仏人と日本人の挨拶のシンボルとして今でも記憶に焼き付いています。
  二点目は、フランス科の落ちこぼれペアーだった演劇部の私とM君とが、春休みのキャンパスで(前期二年終了時)芝居ばかりやっていてろくに授業に出ない身として、バッタリ出くわした先生に「後期進級は如何でしょうか」と不躾にお尋ねしたら、やおらポケットから「エンマ帳」をお出しになり、ページを繰って、ちょっと首を傾げて微笑んで「難しいかなー」と曖昧に呟かれた時、あの飾らない一言で私とM君は「ああ、自業自得で留年するんだ」と覚悟ができたのでした。
  三点目。 先生が“FLAMBEAU”の25・26号で書かれているように、先生の若き助手生活のスタートと重なったあの西ヶ原キャンパスの木造校舎、あの私達にも思い出多い校舎の2階の一隅に部室をもった7,8人が窓下の板壁に「演劇集団 賊」などというアングラ・ムードの看板を掲げて、世間知らずと若さにまかせて、いっぱしのアーチスト気取りでキャンパス内を動き回っていた頃、何かの場で先生から、その看板の存在を冷やかされ、仏語劣等生の自分としては冷汗三斗の思いがしたことが、記憶に残っています。何れの時でも、田島先生の「福顔」は微笑を絶やさず、その優しい寛容さと懐の深さのお陰で、私のような落ちこぼれでも、5年かかって何とか卒業証書を手にできたのは、望外の幸せでした。
  後にフランス語教育学会会長、日本フランス語フランス文学会会長の要職を歴任された我が国仏語界の重鎮の大先生に「ぐうたら学生」の一人として、その巨きな度量と広い視野の端っこで、ややシニカルに静かに見守っていていただいたのかなと、自分の学生時代を苦さばかり溢れる自責の念と共に、物故された先生の人格の大きさを改めて、深い敬意をもって思い起こすばかりです。 先生の略歴を拝見し、戦中の苦労と学徒出陣のご経験、ご趣味の能管と狂言歴30年、数多の大学での若き学究の薫陶と育成、定評ある秀れた幾多の仏語辞書の編纂等、いずれの領域においても偉大な先生のあの笑顔を、尊敬と感謝とある種の温かさとぬくもりの混じりあう感情の起伏の中で、ひたすら偲ぶばかりです。合掌

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田島 宏先生の思い出 (金澤 脩介)
 田島先生に最初にお会いしたのは、1964年(昭和39年)3月、東京外国語大学フランス科の入試合格発表の数日後だったと記憶しています。北区西ヶ原の中庭に面した一階のフランス科の教授室でした。地方出身の私は初めて学ぶことになるフランス語への不安から、そしてこれからフランス語を教えて頂く諸先生にご挨拶をしなければと言う思いから、恐る恐る教授室を訪れました。中には偶々家島光一郎先生(主任教授)、田島宏先生(教授)、岩崎力先生(助教授)がいらっしゃいました。3人の先生方は坊主頭の私を教授室内に暖かく迎え入れて下さいました。
「フランス語やシャンソンをテレビやラジオで見たり、聞いたりしたことがありますか。フランス映画は好きですか。」(家島先生)、「鼻にかかった東北弁のアクセントはフランス語の鼻音を学ぶのには適していますよ。」(田島先生)、「私も東北の山形出身で当初(東大)理学部に入学しましたが、どうしてもフランス文学を学びたくて文学部に転部しました。」(岩崎先生)などと、やさしく寛いだ感じで東北(秋田県大館市)出身の私を安心させる言葉を掛けて下さったことが懐かしく思い出されます。相変わらず不安はありましたが、この時の先生方の言葉で不安は大分和らげられ、元気づけられました。
田島先生はザックバランなお人柄の人で、いわゆる「学者臭」を表に出すことなく、気さくでニコニコしておられることの多い方でした。語源学(etymologie)、統辞論(syntaxe)、文体論(style)などフランス語法、フランス語史、フランス語教授法などがご専門で、ラボを使った初歩フランス語文法の授業や、例のべランメイ調の話振りで、「ついにマレルブ来たれり」と単純・明晰で理性を重んじる詩人のことや、ヴォージュラの「正しい慣用(bon usage)」の勧めなど、フランス語史の講義で話されたことが教室での懐かしい情景として思い出されます。又、フランス語の普遍性について、リヴァロルの「明晰でないものはフランス語ではない」とか、博物学者ビュッフォンの「文は人なり」などの言葉に解説を付して紹介されたことなどが不思議と、断片的な記憶として残っています。
それから幾星霜、2002年(平成14年)2月16日(土)に田島先生を囲んで「メルシー会」が新宿三井クラブで開催され、卒業後30余年ぶりに懐かしの顔ぶれが一堂に会しました。(因みに、この会は昭和39年フランス科入学者がメンバーで、「サンキュー」をフランス語変換してネーミングしたものです。このクラスは最後の「フランス科40人1クラス(うち14名が女性)」で、翌年から「60人2クラス」となりました。)参加者は田島先生を入れて男女18名で、時空を超えて「西ヶ原の外語時代」に戻り、和やかな雰囲気の中で楽しい夕べを過ごしました。先生も大変お喜びになり、次回も是非又参加したいとご感想を述べられていました。(しかしながらこれが田島先生にとって「最初で、最後のメルシー会」ご出席になってしまいました。)
後で分かったことですが、その半年後に先生は「脳梗塞」で倒れられました。
その後リハビリ療養で順調に回復され、本郷サテライトでの「サロン仏友会」にも車イスで奥様と一緒に皆の前にお顔を見せられ、朗々とした何時通りのお声で参加者に向け(仏友会会長としての)ご挨拶をされました。ご挨拶後に会場を退出される時、私も車イスの先生とその横に付き添っていらっしゃった奥様にご挨拶申し上げました。これが私にとって、田島先生のお姿を見た最後の場面になってしまいました。
プライベート面では、1968年(4年生の時)に進路相談で阿佐ヶ谷のご自宅にお邪魔し、アドバイスを頂いた時のことや、同じクラスで同会社に同時入社した富田和義君と1972年4月にこれ又同時に会社のフランス・トレーニーとしてフランス・ベルギーに派遣されることになった時、先生にお願いしてフランス語会話の「個人レッスン」の仏人先生をご紹介頂いたこと(確かWind女史という方でパリ大学哲学科卒、アグレガシオンの資格をお持ちの方でした。)、1977年2月結婚式の時には、先生(当時フランス科の主任教授)にご出席頂き、主賓のご祝辞を頂いたことなど懐かしく思い出されます。このように先生には人生の節目、節目で大変お世話になりました。思い返せば、学内や学会などの要職に就かれていたので、ご多忙だったはずですがいつも快く相談にのって頂いたことを今更ながら有り難く、感謝申し上げる次第です。
先生は仏友会、サロン仏友会など外語のネットワーク作りに情熱も持ってご尽力されました。実際、ご自身でもパソコンを駆使され、広くネットワークを張り巡らされていたようです。そして2000年10月には欧米第二課程語研究室(「フランス研究会」)の益々の発展を祈念され、ご寄付もされたとのことです。
私自身は卒業後長い間大学のキャンパスに足を踏み入れることはありませんでしたが、府中の新キャンパスを一度見学して見たいという思いから、2001年度の仏友会「新キャンパス見学コース」に加わったことがありました。その時、新しい図書館を案内して下さった大学付属図書館長が田島先生から数多くの貴重なフランス語関係の蔵書をご寄贈頂き(2001年7月)、「田島文庫」として収蔵する計画がある旨の説明ありました。その話を耳にした時、かつて進路相談に先生のご自宅を訪問し、書斎でお茶を頂いた時見た夥しい数の書籍を懐かしく思い出したことでした。
図書で思い出しましたが、卒業後社会人としてスタートするに際し、先生からは「初心忘するべからず」という意を込めた「フランス語初歩文法」(裏表紙にご署名入り)を頂きました。先生がご逝去された現在、還暦を来年に控え「初心に帰って」フランス語を少し勉強し直さなくてはと、反省しています。
サラリーマン転勤族の私があちこちから出す年一回の年賀状や海外からのクリスマス・カードにも先生はご丁寧にいつもご返事を下さいました。ザックバランで鷹揚なお人柄と共に、大変几帳面でマメな性格の人だといつも感心して居りました。
話は前後しますが、ある時授業で先生は「横笛」だったか、雅楽の「笙(しょう)」(?)だったかをなさるという話を雑談の中で、照れくさそうに少しだけ話されたことがありました。事情通によるとなかなかの腕前らしいとの噂でしたが、私自身は特に興味がなかったこともあり、それ以上詮索することもありませんでした。従って、先生が嗜まれていた笛が、どのようなもので、どのような時に、どのような場所で演奏されるのかは分からずじまいでした。この謎は先生のご逝去後、本年4月25日(日)に麻布十番の国際文化会館で開催された第2回メルシー会で明らかにされました。この会には関西(大阪、奈良)、北陸、栃木など遠路はるばる駆けつけ参加してくれたメンバー数名を含めて、26名が亡き田島先生追悼の意を込めて参集しました。この時に配布された「田島宏先生を偲ぶ」のリーフレット(幹事の間山周子さんや波多野宏之君が田島先生の奥様より、写真をお借りして作成)を見て、先生が余技として「能管」や「狂言」を永年されており、病に倒れられる直前まで立派な立ち振る舞いで見事に舞台を演じられていたことが分かり、これまでもやもやしていた疑問が氷解しました。
「狂言」は洗練された笑いの芸術とも言われ、能と能の間に演じられる「狂言」は「幽玄の世界」から「笑いの世界」に観客をリラックスさせながら誘い入れるものだそうです。「能」ではなく特に「狂言」に関心を寄せられたところがいかにも先生のお人柄を偲ばせるものがあり、妙に納得した次第です。
天国からメルシー会メンバーをニコニコしながら暖かく見守って下さっているワイン好き(いやアルコール全般?)の先生のお顔がメンバー全員の瞼に懐かしく蘇ったに相違ありません。先生、多少到着時間のバラツキはあると思いますが又天国で再会し、メルシー、メルシーの「メルシー会」を開催しましょう。それまで紅白ワインを飲みながらゆっくりお待ち頂きたいと思います。(2004年6月6日記す)

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田島宏先生 (波多野 宏之)
 学生時代には図書館をあまり利用しませんでしたが、卒業後は本や図書館にかかわることで(それも、何とかフランス語が使えるということも大いに与って)生活の糧を得ていましたので、田島先生がご蔵書500余冊を外語大図書館に寄贈されたことを知って、いくつかの感慨をもちました。
まず何よりも、外語を愛しフランス語教育に力を注がれていたというだけでなく、さまざまな点でポリシーをお持ちであったから、ということ。先生の「西ヶ原と私」(Flambeau. 25/26, 2000.10)という文章を読ませていただくと、(われわれの時代より少し前でしょう)「フランス人の生の声がSPレコードに録音できる機材を教務課に頼んでやっと購入してもらい、惚れ惚れするような発音のウッサン神父に、教室で使うテキストなどを読んでいただいた」とか、(かねて教員の60歳定年を主張しておられたこともあってか、現行62歳のところ)を60歳で退かれたり、「その数年前にフランス語学科から一般教育でフランス語を担当するポストに移」られたり。こうしたつよいお考えのもとに、ご蔵書の寄贈も決断されたのでしょう。その内容も言語学、仏語学関係(主として仏語)のものだけが厳選されてまとまっており、(事情はわかりませんが)田島文庫といった形でグルーピングされず一般図書として受け入れられていることも、資料を利用する側からすればありがたいことです。寄贈図書の一覧は、先のメルシー会に際して図書館のご好意でいただくことができ、参会者にも紹介させていただきました。(外語大図書館のホームページhttp://www-lib.tufs.ac.jp/opac/WoDetail.htmlから「詳細検索」画面の「図書ID」(図書の固有番号)欄に「0000510590」から「0000511125」までを入力すると、(全部を一覧表示することはできませんが)536冊について個々の本の詳細データが表示されます。)
  先にあげた文章の中で先生は、「大切なことは、人の『華どき』を見極めることことではないだろうか。」と述べられています。地位や権力や物欲にしがみつきがちな自分にはなかなかできることではありません。
  図書館、美術館を経ていま大学で教鞭をとる身になって、教材の工夫、専門教育と一般教育の問題、図書館の充実などに思いをめぐらすとき、先生が身をもって示されたこと−軽やかな思考とつよいポリシー―を少しでも実践できればと思っています。

グラス片手の笑顔 (間山 周子)
  多分、クラス一番の劣等生、外語のフランス語科卒業というのは出来るだけ隠して生きているという情けない次第。おまけにひどい健忘症で大学時代の思い出はあまりない。田島先生ごめんなさい。
そんな訳で、田島先生を偲ぶ文集という案にも、私はまとめ役だけ・・・と思っていたのだが、波多野氏はやっぱり世話役は書かなくてはねとおっしゃる。この夏一番の悩みであった。
卒業して25年、初めて出かけた同窓会。その2次会をクラスメートのご好意で、私がたまたま会社をやめたあと、友人と一緒にやっていた御茶の水の店「兎」でやって下さった。それからしばらくして、田島先生から店に電話があり、明治大学の同僚の方とおいでになった。店の方は、素人商売が上手くいくはずもなく、三年ほどで音を上げてやめてしまったが、先生は気に入って下さったのか、二、三度立ち寄っていただいたと思う。
先日のクラス会の前、阿佐ヶ谷の先生のお宅に写真をお借りしにうかがい、英子夫人からいろいろ思い出話をお聞きした。「お酒とタバコをこよなく愛した人生でした。ほどほどがよろしいのでしょうが、若い頃は時には・・・」というお話。グラス片手に本当に楽しそうに満面の笑みで談笑されていた姿を思い出し、酒席は決して嫌いでない私は変なところでグッと先生との距離が狭まったような気がしたものである。

田島宏先生 (三澤 茂)
 田島先生についての思い出の一番は、『ボヴァリー夫人』の講読授業です。1964年の後期に入ってすぐにこの授業が始まったと記憶しておりますが、私は本格的に仏文を読む喜びに浸っておりました。とはいえ、当時、初級文法が終わったばかりの私にとっては新出単語との格闘の毎日でした。第一部の冒頭、シャルル・ボヴァリーの帽子の描写がありますが、出てくる単語のすべてを大修館のスタンダード佛和辞典で調べ上げたあげく、結局どんな帽子なのか皆目イメージがつかめず途方に暮れてしまったものです。難解なこの描写を張りのある声でにこやかに説明されていた田島先生のお姿を40年経った今でも鮮やかに思い起こします。

田島宏先生 (富田 和義 )
 田島先生というと家島先生とは異なり、いつもニコニコされた非常にとっつきやすい教授という印象があります。
あまり学校にも行かず、パチンコばかりしていたグーたら学生であった私は試験が近づくとテキストの訳本を求め御茶ノ水あたりを青い顔をして探し回っていました。
最近身辺整理を始めた古い本はもう一度読んだ後、極力捨てるようにしていますが、その中に岩波文庫の『三つの物語』が出てきました。
通常の小説ですと何もマークなどないのですが、その中はいくつも線がひいてありました。たしか基本的な文法などが終了した後田島教室で最初に購読したテキストでなかったかと懐かしくその当時が思い出されました。
田島先生には金沢君と勤務先からフランス語トレーニーに派遣される事が決まったときに阿佐ヶ谷のお宅にお邪魔して、フランスに行くまでの間のフランス語の先生を紹介してもらったり、結婚式にも出ていただいたりと大変お世話になりました。
しかしお恥ずかしながら先生の人となりについてはまったく存知ませんでした。
先生がお亡くなりになったとき、折り悪く私がフランスに出張していたことから、帰国するとすぐ2度目と阿佐ヶ谷行きをし、ご霊前におまいりしました。このときに田島教授令夫人と始めてお話をする機会を得ましたが、お話を聞けば聞くほど私が先生のことを何も理解していなかったことがわかり恥ずかしくなりました。
しかし第一印象の親切な教授ということは間違いでなかったことは確認できました。
大学でサボった分定年後に取り返したいと思いますので、田島先生天国で笑いながら見ていてください 。

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田島先生の思い出 (にしはら これひと)
 先生は笑みを絶やされない方でした。いかにも温和で、純粋で、学生への慈愛に満ちた方だったと思います。
初めての授業で出席をおとりになり、「Mademoiselle XXX」と呼ばれた時の、先生のあの楽しそうで、ちょっとはにかむような笑顔が忘れられません。
 麻雀三昧で、碌に勉強をしなかった私でした(後悔しています)が、無事卒業させていただけたのも、先生始めフランス科の先生方の広いお心があったればこそと、感謝しています。
 田島先生が監修された「Jeunesse仏和辞典」を開くたびに、先生のお姿を思い浮かべる今日この頃です。
田島宏先生 (吉田 親幸)
 数人で先生を囲んで(多分)雑談などの最中だったと思いますが、先生私を見て「このヒトは・・・、将来何かしそうですね」とおっしゃった。あのヒマワリのような笑顔で、占い師のように。
  それは何か「大きなこと」であるように勝手に思い込み爾来ありがたいご託宣のように折りにふれて先生の笑顔と共に思い出すのですが・・・、ただ今これまでのところよくも悪しくも思い当たることがありません。「先生、これは外れましたね」と呟いておりますがまっこの先まだ何があるか分かりませんよね。
田島宏先生の思い出 (箱山富美子)
 田島先生というと、あの慈愛に満ちた、暖かい笑顔が目に浮かぶ。お酒がお好きなのでちょっと赤ら顔。卒業生たちはいつも先生を中心に集まっていた。研究室で、町の居酒屋で、そしてパリの町や、ヨーロッパの各地でも。先生の周りにはそんな、みんなが自然と集い、団欒する、おおらかな雰囲気が溢れていた。先生がいなくなって、こうした集まりはこれからどうなるのだろう。面倒見の良いことでも知られていた。私も先生から非常勤講師の口を斡旋していただいたことがある。
旅行もお好きでよくフランスはじめヨーロッパを奥様や外語大の卒業生たちといっしょに回られていた。私がパリに持っているアパートに泊まっていただく機会を逸してしまったことは悔やんでも悔やみきれない。先生はとっても楽しみにして下さっていたようなのに。ご旅行にお供しそこなったこととともに、先生にお返しすることのできない借りを背負ってしまった気がする 。

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