ナントの町から、フラメンコ舞踊家“銀翼のカモメさん”からのお国便り。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
第四話
ナント(Nantes)で, 一番曲がった建物
2005.05
エッセイ・リストbacknext
 前回、ナントの街はロワール川のデルタ地帯(砂地)に発展し、その脆弱な地盤のため、ひどく傾いてしまった建物が沢山あるというお話をしましたが、 今回は、その数ある症例の中でも、特に凄いのを御紹介しようかと思います。

 ナントの中心街に、50人の捕虜通り(Cours de 50 Otages)という名前の大通りが走っていますが、ここも、ナントが〈西のベニス〉だった時代(無数の運河が、縦横無尽に往来していた頃)には、エルドル(L’Erdre)という川が流れ、毎日、いろいろな物資を運搬する、沢山の船が往き交っていました。1929年に、ナントの運河埋め立て工事が始まると、この部分のエルドル川も埋め立てられ、エルドルの水は、サン・フェリックス運河(Canal St.Felix)を通って、ロワールに注ぎ込むように設計されました。しかし、第2次大戦により、埋め立て工事は、ドイツ人エンジニア、カール・ホッツ(Karl HOTZ)によって進行されていきます。そして、1940年、この人物が占領軍司令官となって、再びナントに配属された翌年、3人の共産系レジスタンスが、彼の暗殺を企て成功します。が、その復讐のために、48人のナント市民が、ドイツ軍の手によって銃殺されました。1944年、フランスが連合軍によって解放されたのをきっかけに、この通りは、『50人の捕虜通り』と命名されたのです。
  さて、この一帯は、運河が埋め立てられて数十年を経ても、やはり、脆弱な地盤であることに変わりはなく、いろいろな建物が、お互いに何となく傾き、ふうわりと寄り添いながら、直線的なイメージの欠如すること夥(おびただ)しい景観を造っています。私のような日本人は、一年間に何回もの地震に見舞われることがあたりまえで、その規模、震源地、原因さえもが千差万別であることも理解し、しかも、地震直後に始まるニュース速報、津波情報などの緊迫感が、DNAに染み込んでいるような人種ですから、こういう、何とも心もとない建物群を見るたびに、「ナントが、もし、ちょっと強い地震にでも襲われたら、こういう建物は、パソコンの画面に広がるヴァーチャルな世界の映像のように、軒並み、轟音をたてて崩れ去ってしまうだろう!」などという発想を、つい、してしまうのですが、その辺は、昔、学校で習った、古期造山帯の上に、幾千年と安住しているヨーロッパのお話ですから、自分のアパルトマンで、どんなに不用意にものを積み重ねても、決して崩れずに、何年でも過ぎていきます。だから、どうしようもなく傾いた建物でも、そのまま存在し続け、結局、傾いてしまった趣深い景色が、この街の景観の一部として、見事に同化してしまっている事実には、毎日のように感心してしまいます。そういう悠久さとか、不朽の映像みたいなものが、詰まるところ、ヨーロッパのしたたかさであり、日本人には、なかなか真似の出来ない凄いところだなあ!と、日仏の比較などをしたりもするのです。

  さて、その50人の捕虜通りが、一番エルドル川に近づいてストラスブール通り(rue de Strasbourg)と交わるところに、ナントで一番曲がった建物は建っています。12-13年前までは1階が薬局になっていて、2階、3階にも住人がいたようでしたが、次第に窓に明かりが点(とも)らなくなり、薬局も通りの向かい側に引っ越してしまいました。その時すでに、その甚だしい傾き方は誰の目にも明らかでしたから、みんな、「これ以上、ここに住んでいては危ないから、そのうち取り壊しになるのだろう。」と思っていました。が、そのまま数年、放置され、やがて、2,3階には、スクワッター(squatteur)と言われる不法占拠者も住むようになります。その頃から、この建物の周囲に足場が組まれ、聞くところによると、地下に地盤を強固にする特殊な物質を注入している、という話でした。「へーえ、これ壊さないんだ!? 保存する方がお金かかるのにね!」と、不思議な気がしましたが、そう言えば、同じ頃、ナントでパレ・デ・コングレ(Palais des Congres)の建設が進んでいて、やはり地盤の強度が十分ではなかったらしく、工事関係者は、あろうことか、建築中の巨大な建物が傾き始めるという、信じ難いハプニングに襲われています。その結果、パレ・デ・コングレの地中にも地盤強化剤を注入するなど、予算をはるかに上回る大規模な強化工事を行って、現在、そのパレ は近代的大規模建築として、ちゃんと建っていますから、やはり、同じような物質を使っているのでしょう。しかし、50人の捕虜通りの建物は、それ以上傾かないようにするのが精一杯だったらしく、水平ラインが回復されることはありませんでした。

  ところが、2003年頃から、この建物の周りに、見たこともないような建築材が積まれ始め、本格的な工事が始まりました。丸い水車のような大きな木製の物体もいくつか置かれ、「あれは、地下の強化に使うのだろうか?」などと思いながら、50人の捕虜通りを走るトラムウェイ(Tramway)の中から、その進捗状況を眺めたりしたものです。やがて、そのいろいろな材料は、残らず建物の中に吸収され、ravalement de facadeという、長年の埃と、歴史の垢ですっかり灰色になってしまった壁面の石を削って、白く、お化粧直しでもしたように綺麗にする工事も進行していきました。建物は、あくまでも〈とっても斜め〉ですが、白く削られた古い石材は、誰も知らない歴史を秘めた彫刻のように、長い忘却の後に取り戻した、自らの美しさに満足し、酔い痴れているようにさえ見えてきました。一つ一つが大きい四角の白い石材が削られると、白い粉末が舞い、連綿と流れる歴史の1コマ1コマが、白く幽(かそ)けき粉と化して、通りの石畳を覆(おお)っていくような、そんな錯覚に陥りたくもなってきます。

  そんなことを思いながら、最近、ふと気がついてみると、いつのまにか内装工事が進んでいました。窓枠まで傾(かし)いでしまっている窓が開け放たれ、中の工事がよく見えます。真新しい石膏板や扉が設置されていますが、建物は、前後左右に複雑に、しかも沢山、傾いていますから、その修復作業は大変です。何しろ、垂直とか水平という概念をすべて忘れてしまったような建物ですから、全体の傾きを修復すると、無駄になってしまう三角錐のような空間があちこちに出来、使用可能な面積や高さは、かなり減ってしまうのではないでしょうか? それでも何故か、この建物は何らかの使用目的で、保存されつつあるのです。「こういうものでも、遺(のこ)っていくのだなあ。」と一抹の感慨に浸りながら、50人の捕虜通りに面した、曲がった窓を見上げてみたら、《文化財を修復する石工》というような看板がかかっていました。その時私は、急に、太宰治の『走れメロス』を思い出しました。確か、メロスの親友=セリヌンティウスは石工でしたよね? そして、古代ギリシャの建築は、直線を円柱で支えたリンテル・システム、それを継承し、アーチという新しいシステムを創りだしたのが、古代ローマのアーチ・システムで、そのアーチを作る技術が、アルコのテクニカ、即ちアーキテクチャー(建築)であると習った、大学の、〈イタリア・ルネッサンスの建築史〉という講義が、極自然に、そして、かなり具体的に理解できたような気もしました。ここでは、古代ギリシャ、古代ローマ以来の、石の建築があたりまえの事実として、受け継がれているのでしょう。何百年、何千年と、石を削りだし、石を積み上げ、建物を構築し、その建物が傾いても、それを補強し、また石を削り、数知れない内装工事を繰り返して、石工達は、自分の看板を掲げ続ける。これが、石の文化なのだ、石造建築の国なのだ、ということが、理屈や説明をすべて飛び越えて、一瞬にして、私の脳裏に、雷鳴のように浸透したのです。そして、もう一度、その看板を見上げ、もう一度、石畳に目を落とすと、白い石材の白い粉末が、盛りを過ぎたソメイヨシノの落花のように、5月の陽光の中を舞っていました。歴史の教科書、何十ページ分もの人間の営みが、白い、石膏のような感触の粉末となって、私の眼前を通り過ぎていきます。美しく、したたかで、やさしく、粘り強い、その無数の粉の中に、〈石のヨーロッパ〉というものが踊っていました。木を育て、木材を切り出し、製材しては柱を組み合わせていく、日本の建築とは明らかに違う、大きすぎるほどの相違を抱いた、石を削る文化が、そこに、無言で、しかし、力強く存在していたのです。

  そんな、思いがけない伝統の継承を感じて後、私は、またトラムウェイに乗りました。平年よりも、遙かに寒い今年の5月、初夏の陽射しは、その本来の温度を、ひんやりとした透明感の中に閉じ込めてしまっていますが、樹々の枝々は、ちゃんと、毎年と同じような、新しくて、鮮やかな緑を纏(まと)い始めました。エルドル川を彩り飾る、いろいろな緑の、思い思いのグラデーションに目を奪われながら、ギリシャの夢を想い、ローマの野心を思い、私は今日も、自分のスタジオに向かいます。

石壁を 削りし館(やかた) 猶(なお)白く
ギリシャの石工の 夢の続きか
カモメ 詠


エルドル川にかかる、サン・ミエル(St.Mihiel)橋の
下から眺めた、サン・フェリックス運河の入口
(この運河を抜けると、エルドルはロワールに合流する))



エルドル川の終着地点から見た、曲がった建物



曲がった建物全貌(色々な方向に曲がっている)



1つの窓が、複雑に傾いている


内装工事


停留所《50人の捕虜通り》に到着するトラムウェイ


エルドル河畔と、5月の緑



ナントで、一番曲がった建物へのアクセス

Paris-Monparnasse(モンパルナス)駅から
TGV Le Croisic(ル・クロワジック)方面行きに乗ってNantes(ナント)下車(Parisからは、約2時間)Nantes駅北口で、Tramway(トラムウェイ)の1番に乗って、3つめのPlace du Commerce(コマース広場)でトラムウェイ2番線に乗り換え、2つめのCours de 50 Otages(50人の捕虜通り)で下車停留所の向かい側に、この建物は、すぐ見えます。

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