ナントの町から、フラメンコ舞踊家“銀翼のカモメさん”からのお国便り。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
第五話
クレヴ・カール(Creve-Coeur)という砂浜
**前編**
2005.09
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 西フランスの首都 = ナント(Nantes) から海(大西洋)に出かける場合、一番近いのは、ラ・ベルヌリー・アン・レ (La Bernerie en Retz) という所である。もともと海が大好きで、東京からは、しばしば南房総などに出かける私は、フランスでも、ちょっと長い時間泳げる、水温が暖かめの海岸が必要だった。フランス人の夫と知り合った頃、「海、大好き!」と言ったら、彼は早速、ル・プリギャン (Le Pouliguen) という所に連れて行ってくれた。それは、ヨーロッパで、一番きれいな砂浜としてその名を馳せている、ラ・ボール (La Baule) に隣接した、ちょっとお洒落なヨットハーバーのある港町だった。その年は、非常に暑くて、毎日30度はあったし、夏の海というものは、当然暖かいものだという、<北緯35度の太平洋>的な感覚で、私は、どんどん走って、海に入っていこうとした。が、片足を、去っていく波に突っ込んだ時、もう片方の足は宙に浮いたまま、私の背中は、瞬間冷凍のように固まった。北緯47度の大西洋は、氷水のように冷たかったのである。しかし、周りには、何人もの人が、笑ったり歓声を上げたりして、その、何とも冷たい水と戯れていた。私のいる所だけが冷たいのかと思われるほど、それは、あたりまえの夏の情景だった。で、恐る恐る、もう片方の足を地面に下ろし、やっと波打ち際までやってきた夫に、「何これ?こんな氷水で泳げるわけ、ないじゃない!!!」と怒ると、あろうことか、「これ普通の水温だよ!」などと平気な顔をしている。で、「日本の夏だったら、海水の水温だって28度や30度にはなるんだから!!!」と、相変わらず怒っていると、「そんなのあるの?」と、彼は本当に驚いていた。熱帯や亜熱帯には属していない筈の、東京近郊の海水が、それほど暖かくなるとは夢にも想像できなかったそうである。しかし、よく考えてみれば、東京はアルジェ (Alger = アルジェリアの首都)よりも南の緯度だし、フランスのこのあたりは、稚内よりも北に位置している。ただ、昔、地理の時間に習ったように、確か、温暖な北大西洋海流の上昇と、偏西風の影響で、緯度が高い割には比較的暖かい、に過ぎないのだろう。「それにしても、この冷水の中で平然と遊んでいる人達は、いったい何?」と思いながら、人間というものは、環境によく順応できるものだという認識を新たにして、私は、ちっとも温まらない自分の片足を擦り続けていた。
  そんな経緯(いきさつ)があってから、私は、世界地図を眺めながら、フランスの大西洋岸で泳ぐのは無理だろうと、半ば諦めていた。しかし、海は大好きだったから、海沿いの街に出かける度に、砂浜でサンダルを脱いでは、足先で、そっと水温を計ってみた。そのうち、海岸で散歩している犬が、全く躊躇(ちゅうちょ)せずに、嬉しそうに飛び込んでいく姿に遭遇した。いくら立派な毛皮を纏(まと)っている犬でも、冷たい水の場合は、もう少し考えている。「ということは、ここの海水は、少し温かいのだろうか?」と思ったのが、ラ・ベルヌリー・アン・レという街の、とある砂浜だった。半信半疑のまま、波が置いていった泡粒に、そっと足を置いてみると、確かに冷たくない。南房総のように温かくはないが、氷水ではない。そろそろと進んでいくと、それなりにぬるい感じの水だった。夫に言ったら、「ここは ブルヌフ湾(Baie de Bourgneuf)の中だから、外洋の水が入ってこないし、遠浅だから、海水が温められているのかもしれない。」と言った。そういうことがわかるのなら、初めから、ここに連れて来てくれればいいものを・・・、と思ったが、「海水というものは冷たいものだ。」と思っていた人を相手に、それ以上、文句を言っても始まらない。とにかく、私は、この砂浜で海に入ってみることにした。どんどん入って行かれる温度ではないが、少しずつ、寄せてくる波に 呑まれるようにしては、返していく波とともに進んでいくと、だんだん肩まで、大西洋の水に浸かっていた。ちょっと冷たいけれど、次第に慣れてくるくらいの温度で、ホッとして、海岸線の景色を見回してみたら、その途端、大西洋に 呑まれていることが無性に嬉しくなってきた。その名もクレヴ・カール(Creve-Coeur)というこの砂浜には、野生的で美しい海岸線が、シンプルに、そして、サンパティック(sympathique)に連なっている。だから、もしここで、恋人と別れることにでもなったら、それは大変な、断腸の想い (= creve-coeur) に違いない。

 少しずつ、クレヴ・カールの水に慣れて、視野が開放されてくると、もっと広い景色が見たくなってきた。ぐるりとひと泳ぎしてみると、ところどころに、海岸線の岩場から、危なっかしい橋のようなものが突き出しているのに気がついた。それは海に突き出た釣り場で、先端に、掘っ立て小屋のような釣り小屋が乗り、その下には、大きな網が、上げ下げできるようにぶら下がっていた。コールタールで、真っ黒に塗られた小屋もある。真夏に黒い小屋、というのは、どんなにか大変だろう、と思ってしまうが、このコールタールが、海風や砂塵から、小屋を守ってくれる、一番コストの低いペンキだそうである。こんな風にして、やっと大西洋に入れた私は、その未知の水を、ちょっと舐めてみた。太平洋とは一味違う、塩味だった。それは、ナントでも、よく売られている、西フランスの塩田の塩、グロ・セル(gros sel = 粗塩) の味である。そして、色も同じだった。この塩を混ぜた、ドゥミ・セル(demi sel) という、ちょっと塩辛いバターが、この地方の人々にとっては、毎日のテーブルに欠かせない。(c.f. 第一話:ノワールムティエ島の塩田)しかも、このベルヌリーの水は、全く透きとおっていないし、お世辞にも美しいとは言えない。が、それは汚れているのではなく、海底の、粘土質の泥が混ざり合った色なのである。つまり、いろいろな微生物やヨードが混ざった泥を沢山取り込んだ海水、ということになる。したがって、この海水で泳ぎ、この海泥の上でウォーキングをしたりするのは、いつでも、誰にでも出来る、無料のタラソテラピー(thalassotherapie = 海洋療法) ということになる。

  さて、ブルヌフ湾で、漸く大西洋に抱かれ、その濃い目の塩味の波間にプカプカと浮かんでいるうちに、せっかくの遊泳可能な水温だから、少し遠くまで泳いでみようか、という気がしてきた。時々、冷たい海流が通り過ぎたり、その後、妙に生温かったり、水温は一定ではなかったが、日本にいたら、地図の上でしか見られない海で泳げることが、単純に嬉しくて、海岸線を眺めながら、どんどん泳いでいった。すると、釣り小屋の乗っていない釣り場が、柔らかい風景の中に、のんびりと突き出していて、先端には、大きな網が吊り下げられている。「この辺では何が釣れるのだろう?」などと思いながら、その釣り場の下を、遊び泳ぐ小魚のように、往ったり来たりしてみた。上からぶら下がっている大きな網の下をくぐり抜けると、眼前に水平線が広がっていた。グロ・セル色をした海水の向こうに、朧(おぼろ)に霞む水平線が丸い。そして、水分を沢山含んだ白っぽい空気の上に、パステル調の空色が広がっている。が、少しずつ上を見上げていくと、その空色は次第に濃くなり、真上には、大きな大きな、夏色の空がやさしかった。そして、寛大な太陽の楽しそうな光は、波のまにまに戯れて、全体的に、ソフトなラインの夏景色を描き上げていた。真夏でも、太陽がやさしい。真夏の海なのに、大気は乾燥している。そして、真夏の樹木から、蝉時雨(せみしぐれ)が降り注がないのである。「こういう夏もあるんだ!」と、感心した。しかし、感心しながら、改めて、網の下をくぐり抜け、柔らかい色彩に塗り込められた水平線を眺めてみると、やはり、それは夏だった。日本の夏とは、明らかに違うのに、その雰囲気の奥底に溢れている、何だか嬉しくて仕方がない感覚は、やっぱり夏休みっぽかった。そして、妙に懐かしかった。花火、蚊取り線香、西瓜、素麺、冷たいお茶、毎日やらなければならない筈の宿題、学校のプール、時々、友達から届く絵葉書、・・・。そんな、日本の夏休みにつながる、無数の映像、それが醸(かも)し出す香、それを演出する油蝉(あぶらぜみ)の声や、海岸に沸きあがる歓声、・・・。古い引き出しに長い間しまいこまれていたものが、いっぺんに溢れ出し、生き生きと蘇り、眼前に踊りだす・・・、どうしようもなく嬉しい感覚の中で、私は泳いでいた。ここは、北緯47度の大西洋なのに、私は、今、日本の夏を生きている。北緯35度の太平洋の夏とは、比べようもないほどソフトな色彩で描かれた海なのに、その煙る水平線の向こうに、私が感じているものは、間違いなく、日本の夏だった。それは、不思議でありながら、至極当然にも思える、2つの異なる次元の挟間に、フワッと浮かんだような、心地よく軽い感覚だった。


ベルヌリー・アン・レの駅



ナントと西海岸をつないでいる、TER



私のお気に入りの釣り場 :
この橋と網の下を、小魚のように遊び、泳ぐ



城壁をめぐらしたかのような、お屋敷 :
庭先から枝折り戸を抜け、階段を降りると砂浜(満潮時は、プライベート・ビーチ)に出られる



ラ・ベルヌリー・アン・レ(La Bernerie en Retz) へのアクセス
- パリ・ンパルナス(Paris-Monparnasse)駅から、TGV、ル・クロワジック(Le Croisic)方面行きに乗って、約2時間。ナント(Nantes)駅下車。
- ナント駅で、ポルニック(Pornic)方面行きのTERに乗り換え、約1時間。
ラ・ベルヌリー・アン・レ(La Bernerie en Retz)駅下車。
- 駅から、街の中心までは、徒歩15分くらい。街までくれば、もう海岸線は、すぐそこ。 海岸線に沿って、プロムナードも新設されているし、ドゥアニエ道(Chemin de douaniers = 海岸線をパトロールした税関職員の通り道) という、古い小径も、自然の中に残っている。
少しずつ散歩しながら、隠れた入り江や、趣の異なる砂浜を満喫できるのも楽しい。

(N.B.)
大西洋に面した海岸線には、実に沢山の砂浜や入り江があり、救護所のある海水浴場にはLife-guardが待機し、遊泳可能(緑色)や遊泳注意(オレンジ色)の旗も立っている。
しかし、小さな入り江の続く、このクレヴ・カールのような砂浜には、ほとんどの場合、救護所も何もないから、そういうところで泳ぎたい人の安全管理は、すべて個人の責任、ということになる。
特に、この辺の海水は、どんなに温まっていても22-23℃を超える事はなく、私達が、真夏の太平洋(日本近海)などで経験している海水浴とは、勝手が違う。
が、その野性的海岸線は、美しい。
だから、どうしても泳いでみたい方は、水温、干満の時刻、気温と水温の差などに、くれぐれも御注意を!
  そんな、やさしい波色に染まりながら、さらに進んでいくと、今度は、張り出した海岸線の裏側に、小さな砂浜が隠れていた。そこには、高い城壁のような石垣が聳(そび)え立ち、その上には、「これはお城か?」と思うような、古い、赤レンガを積み上げたお屋敷が立っていた。しかも、その城壁の一角に、小さな扉がついていて、細い階段で、砂浜まで降りられるようになっている。つまり、自分のうちの庭先から海岸に出られるという、一般的には、全くあり得ない環境である。「世の中には凄いものがあるものだ!」と、感心しながら泳いでいるうちに、満潮の時は、この砂浜は、全くのプライヴェート・ビーチと化してしまうことに気がついた。舟で近づくか、泳いで行かなければ、このビーチには上陸できないのである。いったいどういう人が建てたのだろう?ナントは、奴隷貿易で巨万の富を稼ぎ出した街だから(c.f. 第3話:フェイドー島と奴隷貿易)、もしかして、そんな豪商が住んでいたのだろうか?などという、シンドバットの冒険みたいな想像を働かせながら、私は、泳いでいる人間の特権として、その砂浜に上がってみた。そこは、黒いような深緑の海藻だけが、細かい、少しオレンジ色がかった、ベージュの砂粒の上に横たわっている、誰もいない空間だった。しっとりと海水を含んだ砂浜の静かな湿り気は、波の音さえも吸い込んでしまう。何世紀も昔の砂浜にうちあげられたような錯覚に陥りたくなる、時空を超えた世界に、私は立っていた。城壁と、砂と、海だけの空間である。何百年も間、無数の砂粒と、無数の水滴に削られ続け、今尚、孤高に聳え立つ、強い、強い城壁の世界である。その〈石〉という材料が持つ、果てしない強さに、一瞬、ヨーロッパ世界の凝縮を見た想いがした。やわらかいオレンジ・ベージュの砂の上で、私は、〈石のヨーロッパ〉という、絶大な重さと大きさを感じようとしていた。が、その時、鋭いカモメの声が空を切り、白く銀色の翼が夏の光と交錯した。そして、私の内部で、ほんの少し、構築されかけようとしていた、知られざるものへの漠とした回想は、見事に断ち切られたのである。後には、茫洋と霞む水平線を挟んで、海と空がふんわりと、パステル調の夏景色を描いているだけだった。淡い空色と白を基調にした、水彩画のようなやさしい景色の中に、私は、戻っていった。ひそやかに、そして、クールに、一歩一歩、戻っていた。この次の入り江に何が待っているのか、知りたくて、本当は走り出したいのに、こういう、幽遠なノスタルジーの世界のような、静けさに沈む景色の中では、何故か、ちょっとクールに振舞ってみたかったのだ。潮は、少しずつ引いていて、波の音も平らになっていた。そして、私の足音さえ、ひんやりと濡れた砂粒が抱く、遠い追憶の彼方に、浅い足跡となって、忘れられていった。

海暮色(うみぼしょく) 入り陽に滲(にじ)む 城壁に  十八世紀の 夢うちよせる
カモメ 詠

(後編につづく)

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