ナントの町から、フラメンコ舞踊家“銀翼のカモメさん”からのお国便り。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
第三話
フェイドー島(Ile Feydeau)と、奴隷貿易
2005.03
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 ナント(Nantes)の街の中心=コメルス(Commerce)広場の向かい側には、フェイドー島(Ile Feydeau)という一角があり、18世紀の建造物が並んでいます。ロワール川に潤う街ナントは、20世紀初頭まで、網の目のように張り巡らされた運河で機能してきた水の都で、《西のヴェニス(Venise)》と言われていました。だから、島も橋も数多く、運河が道になってしまった今でも、そのままの地名が残っています。このフェイドー島も当時は、ロワール川に浮かぶ沢山の島の一つだったのです。(1926年から、約20年の歳月を費やして、ナントの運河は埋められていったのですが、運河の街ナントのお話は、また別の機会にしましょう。)この島の中央はケルヴェガン(Rue Kervegan)という通りで、両側に18世紀のアパルトマン(appartement)が林立しています。それらは、天井の高い建築で(床と天井の間隔は5m余)、窓枠は大きく、鍛冶屋さんが一つ一つ、意匠を凝らしてたたきあげた装飾がバルコニーの柵を作っています。御者に率いられた馬車がそのまま入れるように造られた、両開きの大きな門をそーっと入っていくと、そこは、ひんやりとした石畳の中庭です。古い井戸がそのままのこり、天気のいい日にも、ちょっとグレーがかった空気が漂っているようなこの中庭では、太陽さえも18世紀と同じ陽光を注いでいるのではないかしら?と錯覚してしまうほど、苔むした風格の中に、埃っぽい、歴史の諦めみたいものが染み込んでいるようです。

 さて第二話の中で、フランスが、18世紀にイギリスやオランダと並んで巨万の富を築いていった、大西洋広域の奴隷貿易について、ちょっとお話しましたが、この奴隷貿易とフェイドー島には、深い関わりがあるのです。その〈三角貿易〉と言われたシステムを、今回は、少し詳しく説明してみましょう。先ず、西ヨーロッパの安価な雑貨、酒類、武器などをアフリカ西海岸に持っていって売り捌き、そこで奴隷を買い、それを、西インド諸島やアメリカ大陸に運び込みます。黒人奴隷は、その頃、盛んになっていたプランテーションなどの労働力として、需要増加の一途をたどる高価な商品だったので、奴隷を売ることによって莫大な利益が上がります。その収益で、新大陸で獲れる綿花、タバコ、砂糖、コーヒーなどを買い付けて、西ヨーロッパの母港まで戻ると今度は、それら植民地の製品を売ることで、さらなる巨利を貪ることが出来たのです。だから、大西洋は目と鼻の先に位置するナントの商人達も、挙(こぞ)って三角貿易に参画していきました。そして、奴隷売買で日毎に富み栄えていく彼らは、ロワール川を眺める一等地に、競って、豪華なアパルトマン(=アパート)を建築したのです。それが、フェイドー島とその周辺のカルティエ(quartier)で、彼らは、自分達のバルコニーから、ロワールを上り下りしながら物資と富を運び続ける、自分達の船を見下ろすことが出来たのです。その美しきバルコニーの装飾が、今では高価すぎて、殆ど実現不可能になってしまった鍛冶屋さんの芸術ですが、一つとして同じ図柄のない、これら壮麗な注文建築の陰には、アフリカ西海岸−新大陸−ナント、という三角貿易で巨万の富を蓄えた、この街の悪名高き、暗黒の過去が潜んでいるのでした。

 今も在りし日の姿をそのまま遺しているケルヴェガン通りは、幅が狭く、大きめの石畳はデコボコしていて、決して歩きやすい通りではありません。でも、一度歩いてみると、また戻ってみたくなる、そんな通りです。大通りから反れて、この通りに入った途端に、入り口、窓、梁、階段など、無言に立ちつくしている様々な素材から、18世紀の匂いが立ちのぼり、充満してくるのです。恰(あたか)も、18世紀という空間を歩いているような気がしてきます。ちょうど、図書館の奥まった一室で、古い革表紙の、かすれかかった金文字をなぞりながら分厚い本を広げると、黄ばんだ紙の匂いがしてくる・・・。そういう瞬間と、ケルヴェガン通りに一歩踏み込んだ時の感覚はよく似ています。細長く続くこの通りに面しているのは建物の裏側で、手すりのついた数段の階段が、古びた扉に導いてくれたりします。現在は、この通りの1階は、殆どレストランになっていて、それぞれ、通りの雰囲気に合った看板を掲げ、たっぷりと厚いテーブルクロスに、重い銀製のナイフとフォークが並んでいます。柔らかい蝋燭の炎に染まるワイングラスには、今宵、どんな色の美酒が注がれるのでしょうか?さらに、この通りには画廊もいくつかあります。古い大きな梁が、そのまま見える部屋が、新進アーティスト達の作品発表の場になることもあります。

 建物の表玄関は、ロワール川沿いの大通りに面しています。馬車が出入りした大きな門、建物の幅いっぱいに連なるアーティスティックなバルコニー、そして、壁には彫刻も施されています。現在、歴史的建造物に指定されたこの一帯には、公害で黒ずんだ建物の表面を少しずつ削って(ravalement de facade)、かつてのような美しい建物群にしていく条例が施行され、数年前とは見違えるほど綺麗になりました。白い壁面に黒いバルコニーの装飾、そこに真紅のゼラニウムが咲き乱れると、かつての計り知れない繁栄の片鱗が窺えるようです。が、建物が綺麗になった途端、私は、ある不思議な事実に気がつきました。どの建物も、必ず、どこかが歪んでいるのです。壁が白くなったので、黒いバルコニーのラインがよく見えるようになり、その結果、バルコニーさえもひねひねと曲がり、歪みながら建物の端から端までを繋いでいることに気がついたのです。だから、ゼラニウムの紅いラインも曲がっていました。よく見ると、窓枠も長方形ではなく、微妙な平行四辺形に傾(かし)いでいました。つまり、ちゃんと閉まらない窓も沢山あるのです。ただでさえも、天井の高い部屋を暖めるのは大変なのに、この窓では、冬が来る度に引っ越したくなりますよね!さらに驚いたのは、ドクターや弁護士の事務所などを擁した入口まで、甚だしく曲がっていたことでした。道路が水平だとすると、5度以上は傾いています。こういう建物から出てくると、世の中の方が曲がって見えるのでしょうか?

  ナントは、ロワール川のデルタ地帯に堆積した砂地に形成されているために地盤が脆弱で、街のあちこちで建物が傾いています。鉛筆を落とすと、どんどん転がってしまう床も多々あるそうで、隣同士、傾いているから、お互いに建っているような心もとない建物もよく見かけられます。実際、私達もそういう建物に住んでいたことがあるのです。時々、地盤の奥深いところで石がずれるような感覚(フランス人の夫に、この感覚を説明してみましたが全然わからないそうで、もしかしたら、これは、地震国の人間だからこそ持っている、特殊な感覚なのかも知れません)を体験したことがあります。そういう時に、建物は少しずつ傾いていくのでしょうか?私達のアパルトマンも、次第に傾斜がひどくなり、閉まっていた筈のドアが、床にぶつかって、どうにも閉まらなくなった時、ついに引越しを決意しました。だから、18世紀に建った歴史的建造物に住み、アート感覚抜群のバルコニーで、紅いゼラニウムに水を遣る・・・なんていうのは、絵葉書のように素敵な映像で、そういうおうちで味わうエスプレッソは、どんなに美味しいだろう、と想像しますが、本当は、暖房も効かず、エレベーターはなく、閉まる筈のないドアに、毎日、腹を立て、床を転がる鉛筆を追いかけながら、くしゃみばかりするアパルトマンかも知れません。でも、その空間に漂う空気は、間違いなく〈18世紀〉なのです。長い間、『歴史』という事実を纏(まと)ってきたものには、そういう存在の重さが備わっているのでしょう。

  まだ冬色の毎日が続いているナントの街で、フェイドー島は今日も、18世紀の空気を湛えながら、長い時間をかけてやって来るヨーロッパの春を待っています。

遅き春 十八世紀の 街並みを 巡りし運河 今は路なり
カモメ 詠

甚だしく曲がった入口
(ドアと石の隙間に足してある、 細長い、若干、三角形の木によって、 建物の傾むき方が、よくわかる)


それぞれに傾きながら、歴史的建造物に指定された フェイドー島の建物群


建物の表通り側の壁面に施された彫刻と、ゼラニウムの咲くバルコニー


馬車の出入りした正面玄関

フェイドー島(Ile Feydeau)へのアクセスは
Paris-Monparnasse(モンパルナス)駅から
TGV Le Croisic(ル・クロワジック) 方面行きに乗って
Nantes(ナント)下車(Parisからは、約2時間)
Nantes駅から、Tramway(トラムウェイ)=路面電車の1番に乗って
3つめの Place du Commerce(コマース広場)で下車(駅から、5−6分)
市電と市バスのターミナルになっている、
このコマース広場の向かい側が、もう、フェイドー島の一角です。
 
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