ナントの町から、フラメンコ舞踊家“銀翼のカモメさん”からのお国便り。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。

第三十一話
サトウキビは、Boite Bleue (ボワット・ブルー = 青い箱)で白くなる
**後編**

2008.12
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(中編から続く)
バナナの倉庫を眺め、精糖工場を見上げているうちに、小さい頃に食べた、バナナの味が思い出されてきた。当時(= 東京オリンピックの頃)、美味しいバナナは台湾バナナで、中南米産のは、ちょっとグレードが落ちるものとされていた。割り箸問屋だった、私の祖父母の家には、年中、色々な人間が集まっていたが、お茶の時間にバナナが出たりすると(あの頃、果物というのは、時々、おやつに出てくる、上等な食品だったのである)、「今日のバナナ、味が違うね?」「だって、中南米だもん。」などという、無責任で人間味のある、昭和40年代の茶の間らしい会話が、交わされていた。そんなことを耳に挟みながら、私は、台湾とか中南米という言葉を、意味もわからないまま、覚えた。その地名が、地球儀のどの辺にあるのかを知ったのは、もっとずっと後のことである。神保町の果物屋さんに行ったりすると、台湾バナナは、ちょっとすまして、少し上等な籠に並べられ、〈ひと山いくら〉という風に売られていた。上等なマスクメロンが、高僧の袈裟のような紫色の座布団に乗って、上段に鎮座している棚の、下の方にあったのだから、それなりに立派な果物だったのだろう。傷もない、綺麗な黄色い皮が大きめの実を包んで、たわわな房になっているバナナが、自慢そうに籠に収まって売られている様子を見て、子供なりに、これは、かなり高価な輸入品なのだろう、くらいの想像はしていた。

その後、いつ頃から、中南米のバナナが、沢山、入荷されるようになったのだろうか?おそらく、Chiquita Banana(チキータ・バナナ)という青いレッテルのバナナが出始めた頃だから、1960年代後半だろう?オレンジや、グレープフルーツの輸入が自由化される少し前だったと思う。小学校の頃、うちの隣の人が、国際航路の船に航海士として乗り組んでいて、おみやげに、オレンジという果物をいただいたことがあった。普通の蜜柑のほかには、<なんとか柑>という柑橘類しか見たことのない、当時の日本人にとって、生まれて初めてのサンキスト・オレンジの味には、すごいインパクトがあった。カリフォルニアという言葉をそのまま色にしたようで、皮は薄くて、剥いていくはじから、甘いジュースが滴り落ちるような、本当にジューシーなフルーツだった。その後、どういう成り行きだったか定かではないが、グレープ・フルーツという不思議な名前の柑橘類にも出会った。どこかで、その美味しい食べ方を習ってきた母は、大きな黄色い球体を半分にすると、ちょっと高級品だったグラニュー糖を、満遍なくかけた。そして、「こうやってしばらく待っていると、ジュースが、どんどん溢れ出して来るのよ!」と言った。私は、手品に見入る観客にように、爽やかな香りのなかで、きらきらと輝きながら溶けていくグラニュー糖を見つめていた。しばらくすると、その魔法は、本当になった。スプーンの上に盛り上がったグレープ・フルーツの房は、トロピカルな液体の結晶のようだった。こんな風にして出会った、西洋の果物の、甘くてジューシーな滴りの中に、私は、子供なりに、《舶来》品の贅沢さというものを痛感した覚えがある。だから、輸入柑橘類の自由化の時期なんぞを、覚えているのである。そして、チキータ・バナナが、東京にアジアの基点 = 極東フルーツを創ったのが1962年、Miss Chiquita (ミス・チキータ)という商標のバナナを、ヨーロッパに輸出し始めたのが1966年だそうだから、日本に中南米からバナナが入港するようになったのも、そのあたりの年代になるのだろう。

アメリカは、1970年代、中南米諸国にMono Culture(モノ・カルチャー)経済を強いて、アメリカへの依存を余儀なくしていた。その頃、アメリカのUnited Fruits (ユナイテッド・フルーツ)社が、Cuba(キューバ)のサトウキビ、Guatemala(グアテマラ)、Honduras(ホンジュラス)のパインやバナナ、Costa Rica(コスタリカ)のバナナなどを一手に買っていたが、限られた農産物のみを生産していた中南米諸国は、自動的にアメリカに依存せざるを得なかった、というシステムである。しかも、ユナイテッド・フルーツ社は、各国の国営鉄道と合併するなどして、農産物の輸送・販売まで、一手に独占しており、これらの国々自体が、ユナイテッド・フルーツのために存在しているような状況だった。

ところで、戦時中には、日本の南洋興発がサイパンで砂糖業を興し、テニアン島を砂糖の島に成長させたそうだ。が、ここのサトウキビも、戦後はアメリカの傘下に入ったことになる。つまるところ、サトウキビというのは、先進国の経済戦略の対象になりやすい農産物らしい、ということに、だんだん気がついた。しかし、石油のように、生産国の資源ナショナリズムには利用されてこなかった。だから、今、中南米諸国は、サトウキビからエタノールを生成し、石油に変わるエコな資源を大規模生産しようとしている。そして、極力、アメリカのFree Trade Area(フリー・トレード・エリア)に入らずに、むしろ、インドなどと提携し、エマージング諸国間の経済協力によって、強い意気込みで、先進国からの経済的自立を実現しようとしている。今こそサトウキビが、今までになかった大きな力と意義を持って、やっと、その生産国である発展途上国に恩恵をもたらすことが出来るようになるのかもしれない。「頑張れ!サトウキビ!!! 今度こそ、搾取されない、強くてインテリジェンス溢れる資源になれ!」と、私は思いながら、ナントのボーリュー島に、今も君臨するBeghin Sayの、自己主張の強い、ブルーのペンキを思い起こした。

さて、アメリカのユナイテッド・フルーツ社は、1870年、Boston Fruits Company(ボストン・フルーツ・カンパニー)として創立されている。1899年に、コスタリカ国営鉄道と合併して、ユナイテッド・フルーツ社となり、北米への、バナナの輸出・販売を開始する。しかも、この年が、Chiquita社の正式な創業年だそうである。ということは?19世紀末、バナナの輸出・販売を一手に展開したユナイテッド・フルーツ社は、1962年に、Chiquita というバナナの商標を創り、1984年に社名変更し、チキータ社になっていた、のである。ナント、ボーリュー島に今ものこる《バナナの倉庫》と《精糖工場》に、何故か、不思議な好奇心をかきたてられ、何となく調べながら、あっちこっち寄り道をしているうちに、結局、南米のサトウキビを買い占めていたユナイテッド・フルーツ社は、チキータ・バナナ社そのものだった、というところに行き着いた。それは当然と言えば、当然の話なのに、何だか、キツネにつままれた感じ。

さて、このロワール河口地帯には、まだまだ、いろいろな新大陸の物産に纏(まつ)わるエピソードが控えている。3本マストの帆船 Belem = べレム(フランスの有名なチョコレート・メーカー = Menier =ムニエが、新大陸から、Feve de Cacao = カカオ豆を輸送してくるために、ナントのChantier de Dubigeon =ドュビジョン造船所に依頼したもの)が運んだカカオのお話もあるし、大西洋を渡った、タバコの輸入と、それに伴って、イギリスから密輸されてきた、インドの布地もあったらしい。タバコそのものも、密輸、密売されていた。さらには、塩の密売もあった。それは、Ancien Regime(アンシアン・レジーム =フランス革命以前の社会体制)にまで遡る、古いお話に端を発するが、当時、塩は課税対象だった。が、自然の塩田が多く、塩を豊富に収穫できるナント付近では、塩にかけられる税金が免除されていて、当然、塩の密売というものが横行していく。ロワール河口地域には、島も多かったから、密売には最適の地形だったのだろう。Louis XV(ルイ15世)は、密売、闇取引を取り締まるために、ついに1767年、L’Ile de Bouin(イル・ド・ブワン = 現在は、島ではなくなったブワン島)と、L’Ile de Noirmoutier(イル・ド・ノワールムティエ島《第1話》参照)を、1785年には、L'Ile d’Yeu(イル・デュ)を買い取ったのである。しかし、強(したた)かなノワールムティエ島の人々は、海岸線から5kmに位置する、L’Ile de Pilier(ピリエ島)に小舟を着け、2つの島を行き来しながら、密売に専念し続けたそうである。

奴隷貿易と新大陸の物産は、そこから上がる計り知れない利潤の、飽くなき追求のために、造船技術をも進化させ、新しい物資の需要を作り、近代工業を発展させながら、結局、一癖も二癖もありそうな歴史のカオスに、複雑に巻き込まれていってしまう。その辺を、もうちょっとよく知ってみたいので、パンブフで始まった、海運都市ナントの、知られざる過去への探訪を、しばらく続けてみようと思っている。しかし、そもそも真っ赤な205が、私達をパンブフまで連れて行ってくれなければ、これまでの発見も、出会いも、いろいろな資料を紐解いてみる機会も廻(めぐ)って来なかったのだから、不思議なものである。何かの廻り合わせが、何かを思い立たせ、そして、何かをやってみたくなる。するとその時はおそらく、その何かをやってみるべき時なのだろう。その時を逃さなければ、必ず、何かを学べて、それがまた、別の何かの役に立つらしい、という感じである。自分では計り知れない、おおいなるものの意思が、私達に、そういう機会を提供してくれようとする時があるのだろうか?潮の干満を作り出す、地球のバイオリズムみたいな力が、アンティーユ河岸を、今日も縦横に走り続ける引込み線のように、鈍色(にびいろ)に光りながら、私を引っ張り続け、魅惑し続け、そして、かなり強引に、誘導し続けてきたのかもしれない。河岸も、引き込み線も、桟橋も、霧笛も、なんてきらきらする魅力に満ちているんだろう!そういうオブジェすべてが、ボーリュー島最西端に沈んでいく入り陽に染め上げられる時、私は、そういういろいろと出会えた偶然、そして、その偶然を享受できている、めぐりあわせの不思議に、どうしようもない大きな力を感じた。地球のバイオリズムを掌(つかさど)っているような、銀河系宇宙の持つ、とてつもない力…。そういう大いなる力の絶大さを前にして、自分たち人間の微力さを感得できる瞬間、そこには、シンプルで、至極あたりまえの<納得>の時間が流れている。そういう時間が、沈みゆく太陽の絶体的オレンジ色に飲み込まれ、溶鉱炉で熱せられた鉄のように、濃く、熱く溶け出す時、あたりは、ソフトな高温に包まれた。その、やさしい熱波の中で、この美しき地球に生まれてきたことの喜びが、私の中にヒタヒタと湧き出し始めた。ちょうどいい温度の、やわらかいお湯が、心という器(い)れ物を満たしていくような、静かで確実な温かさ。その、無上のぬくもりに浸る、ボーリュー島の最西端で、新大陸の幻影が、陽炎のように、ゆらめきたった。その強い光の洪水を、私は、全身で浴びた。

(decembre 2008)
船船(ふねふね)が 競い迷いて 猶(なお)渡る
新大陸は 禁断の美味
カモメ詠

Quai de la Fosse (フォッス河岸)にある、Navibus(水上バス)の停留所。






水上バスの入口を入り、タラップを降りて、乗船する。









水上バスから眺めた、ボーリュー島最西端。








水上バスからもよく見える、Beghin Say の<青い箱>。グレーの大型クレーンから、この<青い箱>までの河岸が、プレジデント・ウィルソン河岸(c.f. 第30話)







水上バスから見た、バナナの倉庫。この倉庫が建つ、古いコンクリートの足場に、植民地から、海を越えて運ばれてきたバナナが、どんどん陸揚げされていったのだろう。







傾き始めた太陽が、ロワールの水面に反射する。Daniel BUREN (ダニエル・ビュレン = 1986年に、パリ、パレ・ロワイヤルの中庭に設置された、黒白ストライプの円柱群による作品で有名。一貫して、ストライプを題材にしているらしい、このアーティストの作品は、東京お台場でも見られる)製作の輪(Les Anneaux = 輪 という作品)に切り取られた景色の中に、旧ドュビジョン造船所の、古い古いクレーンが納まり、手前を、フォッス河岸に向かう水上バスが航行している。








参考までに、東京お台場にある、ダニエル・ビュレンの作品。《25のポルティコ - 色彩と反映》という作品。これも、やっぱり、ストライプ。






夜のしじまの中に、幻影のように浮かび上がる、Beghin Say。イリュミネーションに華やぐ青と白は、ディズニーランドの建物みたいな感じもするが、煙突から出ている(おそらく)蒸気が、24時間稼動している工場であることを思い出させる。








陸揚げされる植民地の産物を運び続け、今は、当時の歴史を、新しい記憶へと運び続ける、引き込み線。西へ西へと、沈む夕陽を追いかけるように、アンティーユ河岸を走り続けている。







「コーヒー・サーヴァーが壊れてしまった」と言って、友人が、プリミティヴな仕組みで淹れてくれた、食後のコーヒー。ここでも、褐色の砂糖は、やっぱり、Beghin Say だった。







(P.S.)
甘い、サトウキビのお話を読んでいただいている最中に、とんでもない事態が、ボーリュー島を襲っていた。2004年10月から、Tereosという名称で、業界に生存し続けていたBeghin Sayの工場 = ボワット・ブルーが、閉鎖の憂き目に遭う、という話を耳にしたのである。大急ぎで最新ニュースを検索してみたら・・・ :
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ヨーロッパ製糖業への規制の改定、特に、精製に対しての助成廃止により、ヨーロッパ製糖業界の経済状況は、急速に悪化した。この結果、Tereos グループの経営は、大きく減速し、2008年9月30日現在、1千万 Eurosの損失を計上している。

すでに、2年前から赤字経営を余儀なくされていたTereosが、今後、ナントの工場を存続させていくためには、年間生産量を2倍に増やし、就労人員も増強しなければならなかった。現在まで、172人の従業員で、年間、12万トン = 1億5700万ユーロを計上していたナントの工場 = Beghin Sayのボワット・ブルーが、年間生産量25万トンを目指すためには、1千万ユーロの再投資が不可欠だった。

その結果、Tereosは、2008年11月12日、ナント工場の閉鎖を発表した。そして、172人の従業員を、Tereosグループが、フランス国内に有する、9つの製糖工場に再就職できるよう、最善を尽くしながら、2009年の夏までに完全に閉鎖する、というスケジュールになった。
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つまり、私が、このエピソードを連載している真っ最中に、あの、爽やかなボワット・ブルーが、ボーリュー島の景色から、消えてなくなってしまう事態に陥ったのである。長い長い製糖史の流れの中で、1929年の大恐慌を、それぞれに生き抜いてきた、戦国の猛者 = BeghinSay、その2人の名前を高々と掲げて、ボーリュー島の一部のようになっていた、青くて、白いボワット・ブルーが、来年のサマータイムの頃には、同じくらい青い夏の空に、飲み込まれるようになくなってしまうのだろうか?EUという新しい体制が、重くて大きな車輪を押しながら、やっとのことで軌道に乗ろうとしている矢先に起こった、今回の世界的金融大恐慌が、フランスで6番目の都市 = ナントに、のんびりと浮かんでいたボーリュー島にまで、押し寄せてきたのかもしれない。(2008.11.26)

アクセス
- Paris - Monparnasse (パリ・モンパルナス)駅から、TGV Atlantique のLe Croisic (ル・クロワジック) 方面行きに乗り、Nantes (ナント)下車。(約2時間)
- ナント駅北口で、トラムウェイ1番線 Francois MITTERAND (フランソワ・ミッテラン) 方面に乗り、Place du Commerce(コマース広場)下車。ナント駅から、3つ目の停留所。
- コマース広場で、市バス42番 Vertou (ヴェルトゥー)行き、あるいは、52番 Hotel de Region (地方庁) 行きに乗って、Gustave Roch (ギュスターヴ・ロッシュ)で、降りる。 コマース広場から、3つ目。2つ目の停留所で、すでにボーリュー島に入っている。 停留所の近くが、Beghin Say.
- ここから、Boulevard Gustave Roch (ギュスターヴ・ロッシュ通り)をPont des 3 Continents (3大陸橋)まで歩き、そこから、Quai President Wilson (プレジデント・ウィルソン河岸)を、グレーのクレーンまで行けば、Hangar a Bananes (バナナの倉庫)のあるQuai des Antilles (アンティーユ河岸)に着く。が、ものすごく遠い。
- ボーリュー島の中は、漠然と広いので、歩くのは大変!市営のパーキングに貸し自転車があるので、それも1案。コマース広場に隣接したフェイドー島地区に、トゥーリストオフィスがあるので、まず、そこに行ってみるのがお勧め。最近は、市のあちこちにオレンジ色の貸し自転車があって、便利そうな気がするが、これは、1年間の会員にならないと借りられないらしい。
- Quai de la Fosse (フォッス河岸)と、Trentemoult (トロントムー) を繋ぐNavibus (ナヴィバス = 水上バス)に乗るなら、トラムウェイで、コマース広場から3つ先の、Gare Maritime (ギャール・マリティム) で降りれば、目の前が、乗船所になっている。

銀翼のカモメさんは、フラメンコ音楽情報サイト「アクースティカ」でもエッセイ連載中
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