ナントの町から、フラメンコ舞踊家“銀翼のカモメさん”からのお国便り。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。

第三十五話
Savon de Marseille
(マルセイユ石鹸) の泡立ちは、
地中海文明の手触り
**中編**

2010.1
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(前編から続く)
ところで、アレッポの石鹸って、どうして、こんなに重いんだろう?地中海文明が凝縮され、さらに煮詰まって、濃厚になると、こういう石鹸になるのだろうか?紀元前からの歴史の重量、みたいなものを体現している感じの塊である。それに、アレッポって、どこなんだろう?この石鹸のどんよりしたオリーヴ色の表面に、しっかりと押されている刻印は、アラビア文字だから、アラブ系の国らしい、ということだけわかっていた。で、ちょっと検索してみたら:

アレッポは、シリアの街。トルコとの国境から、約48km、シリア北西部の都市である。アラビア語では、Halab(ハラブ)、トルコ語では、Halep(ハレップ)、それを、英語読みにするとAleppo(アレッポ)、フランス語ではAlep(アレップ)になる。アレッポ市は、首都ダマスクスに次ぐ、シリア第2の都市で、西の地中海から、東のユーフラテス河に至るまでの100kmを繋ぐ、交易ルート上に位置し、<現在も人が住んでおり、且つ、今まで人が住まなかった期間がない、歴史的に、最も古い都市> と言われている。そういえば、シルクロードの欧州側の起点は、シリアのアンティオキア(中国側起点は、洛陽)だったから、ちょうどこのあたりになるのだろう。と思って、ちょっと紐解いてみたら、アンティオキアは、古代の西シリア、オロンテス河畔に建設された都市で、ヘレニズム時代のセレウコス朝シリア王国(BC312−BC63)の首都だった。その後、ローマ時代には、シリア属州の州都(セレウコス朝の末期、シリアに進駐したポンペイウスに敗北し、ローマに併合され、セレウコス朝の歴史は滅亡した)として栄えた、とされている。地理的には、アレッポよりさらに西で、オロンテス河口、つまり、地中海のすぐ近くである。古代から、交通・貿易の要衝だったアレッポには、世界中から、多くの商人が訪れ、キャラバン・サライ ( = 隊商が宿泊した宿場)も賑わい、スークはごった返した。

さて、アレッポの石鹸は、オリーヴオイルとローリエ( = 月桂樹)オイルのみで、作られている。そしてシリアは、オリーヴの原産地でもある。西に地中海、東に砂漠。地中海からの雨の恵みと、砂漠から吹き込んでくる熱気が、オリーヴの実を育てた。しかも、砂漠性の乾燥した空気は、害虫を寄せ付けないので、ここのオリーヴは、無農薬(近年、注目を浴びているBiologique = 自然農法栽培、が尊重される傾向の中で始まったことではなく、伝統的に無農薬)で栽培されている。

毎年10月、収穫の秋を迎え、熟した新鮮なオリーヴの実から、オリーヴ・オイルが搾られる。アレッポの石鹸は、2番搾りのオイルにこだわっている。2番搾りとは、食用のオイルを搾った後、さらに、果皮や果肉と一緒に高い圧力をかける搾り方で、この石鹸独特の緑がかった黄土色は、オリーヴの実の色だそうである。さらにローリエも、シリアから隣国トルコの地中海側山岳地帯に自生していて、その実から、オイルを搾る。しかし、沢山の実から、少量のオイルしか採れないので、非常に希少価値で、現地では、少しでもローリエ・オイルの入った石鹸は、ローリエ石鹸と呼ばれているほどである。

さて、石鹸の材料が、すべて現地で調達できる、理想的環境を有したアレッポは、《石鹸発祥の地》と言われ、シュメール時代 (シュメール文明とは、メソポタミア南部を占めるバビロニアの南半分の地域に興った都市文明で、いわゆる初期メソポタミア文明である) の粘土板 (シュメール人が、楔型文字を造り、粘土板に、『ものを書く』という作業を始めたのは、BC 3500頃だった) には、すでに、石鹸の製法が記されていたそうである。「中学校の歴史の授業で楔形文字を習った時、こういう具体的な記述みたいなものを教材にしてくれたら、試験のために年代を覚えなければならないストレスが、随分解消されたのに…。」と確信し、ものすごく残念な雰囲気が、私の周囲に充満した。あの頃、習っただけで忘れてしまったシュメール文明に、もし、こういう興味深い分野があるのを知っていたなら、私だって、その後、石鹸を研究していたかもしれないからである。ともあれ、そのアレッポの石鹸は、すでに古代エジプト(BC 3500頃のエジプトは、上エジプト、下エジプト、二つの統一国家からなる、原始王朝の時代で、その後、BC 3150年頃、メソポタミアに対する脅威から、国が統一され、エジプト初期王朝時代に入る)の人々を魅了した。その後、時代を下り、中世の貴婦人にも愛用され、現在も、最高級の自然石鹸として、高い評価を得続けている。今尚、4000年来の伝統的な手法を守り抜いて造られている、この石鹸は、毎年、新鮮なオリーヴが収穫される12月から3月までの、4ヶ月間だけしか、製造されていない。ノーマルなタイプは、オリーヴ・オイル : ローリエ・オイル が 90 : 10であるのに対し、エキストラ・タイプは、その比率が、60 : 40で、これ以上ローリエを入れると、石鹸にならなくなってしまう、ぎりぎりまでローリエの配合を高めた、最高級品である。では、その製法とは :

1)釜に、オリーヴ・オイル、ローリエ・オイル、ソーダ灰を入れ、3昼夜かけて、じっくり煮込む。この間に、オリーヴ・オイルは、ゆっくりと石鹸になっていく。シリアでは、この過程をcooking (クッキング)と言って、石鹸職人が、製造過程の石鹸を口に含み、味を確かめながら、丁寧に作り上げていく。

2)煮詰めたものを、ビニールを敷き詰めた型に、流し込んでいく。表面をならし、約1週間かけて、ゆっくりと固めていく。

3)固まったら、人の手で、切れ目を入れ、一つ一つに、<アレッポの石鹸>の刻印を入れ、風通しのいいところに積み上げて、自然乾燥しながら、熟成させる。初め、深緑色だった石鹸の表面は、次第に飴色に変わっていく。こうして、外側は黄土色系、中身は緑の、アレッポの石鹸の色になっていく。

4)2年間乾燥・熟成させ、ようやく石鹸として完成する。そして、石鹸の端を、形よくカットすれば、形状、香り、色、すべてがナチュラルな、アレッポの石鹸が出来上がる。

5)完成品は、商品として袋詰めされ、シリアから輸出され、ヨーロッパや日本を始め、世界各地のお店に並ぶ。アレッポ市には、勿論、無数の石鹸工場があるが、社会主義国シリアでは、アレッポ石鹸を始めとする、重要な物品の輸出が厳しく管理されており、極、限られた会社にしか、輸出が許可されていない。


アレッポの石鹸。ずっしりと重い、歴史のレンガのような質感。表面にアラビア語で刻印が押してあるが、読めないのが残念。





アレッポ石鹸に付いていた小型の説明書 (アレッポを代表する石鹸メーカー、アデル・ファンサ社)。オリーヴ・オイル対ローリエ・オイルの比率が、90:10のノーマル・タイプと、60:40のエキストラ・タイプの説明。中央の写真のオリーヴの実の色を見ると、33話に添付したコーヒー・カップの絵柄に、よく再現されているのがわかる。






アレッポ周辺の地図。オリーヴ生産に適しているのは、砂漠と地中海に挟まれた帯状の細長い地域。
(クリックで拡大します)





アレッポ石鹸の製造工程の写真が載っている説明書 (アデル・ファンサ社)。3昼夜の窯炊き、刻印、切り分けなどの工程が、よくわかる。シルク・ロードの出発点のある土地で、こういう風に、無数の手作業の工程を経て刻印された石鹸を、自分のお風呂で使う、という贅沢は、ちょっと、玄宗皇帝&楊貴妃レベルかも。




うちの庭に植えてみた、オリーヴの一枝。昔、ディズニーの絵本で『ノアの方舟』を読んだ時、洪水が終わって、無事に助かった動物達の頭上に飛んできた白い鳩が、こういう一枝をくわえていたのを覚えている。その時、漠然と、「この枝が、平和みたいなことを意味しているのだろうか?」と考えていた。今、自分で植えてみて初めて、あれが、オリーヴだったんだと、よくわかる。遠征を終えた十字軍も、こういう枝を、ヨーロッパ世界に持ち帰っては、自分の庭に植えてみることから始めたのだろうか?





3ヶ月くらい使っても、尚、ずっしりとヴォリュームのあるアレッポ石鹸。かなり固いので、ヨイショっという感じで、ナイフを切り下ろすと、意外と鮮やかな(写真より、本物のほうが、華やかな色合い)オリーヴ色が現れた。しっとりと、充実した手触り。オリーヴの実のペーストを、ローリエの葉で包んだような断面。抹茶餡の色によく似ている、この石鹸を眺めているうちに、こういう色の組み合わせが生まれいづるところが、やっぱりオリエントなのかな?と、思った。

という、古来からの、ゆっくりとした時間の流れの中で、交易という目的のために、辛抱強く、したたかにシルク・ロードを進んだ隊商のように、しっかりと確実に熟成していくのが、アレッポ石鹸である。

ところで、オリーヴの木は、ローマの勢力がシリアにまで達した時 (ということは、セレウコス朝がローマに滅ぼされた頃)、 ヨーロッパに持ち込まれたらしい。そして、1096年に、第一回十字軍の遠征が始まり、イスラム教国からの、エルサレム奪還を目指すわけだが、その折、十字軍が通過した、シリアからパレスチナにかけての中東地域に、いくつかの十字軍国家が誕生する。アンティオキア(シルクロードの出発点)も、その一つで、キリスト教徒に攻略され、アンティオキア公国となっている。その十字軍が、ヨーロッパにアレッポ石鹸の技術を持ち帰ったと、言われている。これは、すごい初耳!である、と同時に、またしても、つまらない詐欺に遭ったような気がした。つまり、何回にも及ぶ、十字軍の遠征を、ただただ、無味乾燥に勉強した時、彼らがヨーロッパに齎 (もたら)した、ヨーロッパより、ずっと先進だった文明の恩恵について説明されていたら、歴史の授業は、もっとずっと面白かった筈なのである。どうしてもっと、<生きた歴史>を学べないのだろう?あれほど、莫大な分量の記憶を要求される勉強の意味は、何だったんだろうか?結構な年の大人になって、初めて知ったいろいろな事実が、学校で習った事象の、すぐ脇に存在していたことを知るたびに、すごく損をした気がしてしょうがない。やっぱり、脇道にそれたり、寄り道をしたりするのは、人間にとって、かなり大切なことなのだ。もしかしたら、余談の中にこそ、人生の真意が隠されているのかもしれないのだから。アレッポ石鹸は、私に、そういう、知られざる、一つの摂理を見せてくれたのかも…。

かくして、オリーヴ・オイルとローリエ・オイルのみから成るアレッポ石鹸は、いつの時代も、高い人気を博し続け、15世紀には、オスマン帝国の首都へ、500トン/年も輸出されていた。1516年、オスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼして、この地方を征服すると、アレッポは、オスマン帝国アレッポ州の地方都市となった。その頃、古代ローマ以来、オリーヴを栽培してきたヨーロッパで、やっと石鹸ブームが興っていくのである。

これが、コペルニクス通りのお店の棚に、小型の煉瓦のように積んであった、アレッポ石鹸というものである。フランス語では、Pain d'Alep (パン・ダレップ = 街の名は、Aleppなのに、石鹸は、Alep) と呼んでいる。Pain (パン)とは、塊のこと。使ってみると、オリーヴ・オイルの香りが、微かな森の香りに混ざって広がった。ゆっくりと泡を立て、砂漠の熱気を想いながら肌を洗う。そして、浴槽に浸かる。すると、さっきより、水を弾いている肌の張りに気がつく。湯気の中に、キャラバン・サライが蜃気楼のように浮かび、滲む。スークの喧噪が聞こえてくる。砂漠の熱風が吹き、地中海の湿り気が滴り落ちる。歴史のレンガで、肌を洗ったような感覚。それは、オリーヴとローリエのオイルのみで、贅沢に造られた、ちょっと沈潜した色合いの、深いキャメル色のレンガだった。

(janvier 2010)
(後編に続く)

アレッポの 石鹸の香(か)に 立ちのぼる
午後のスークの 動かぬ空気
カモメ詠

*アレッポ石鹸はモンパリお買物倶楽部でも購入できます

アクセス
ナントへのアクセス
Paris − Montparnasse 駅(パリーモンパルナス)から、TGV、Le Croisic(ル・クロワジック)方面行きで約2時間。Nantes(ナント)駅に到着する。駅から、Tramway (路面電車)1番線、Beaujoire(ボージョワール)方面行きに乗れば、3つめで、ナント中心街に着く。同じ線の、Francois MITTERAND(フランソワ・ミッテラン)行きに乗って、3-4停留所で、ロワール川沿いの、旧化学工業地帯に着く。古い大きな倉庫、古い造船所跡などで、その面影が窺える。

コート・ダ・ジュールへのアクセス
Parisから、国内線で、Nice−Cote d'Azur(ニース・コート・ダ・ジュール)空港へ。空港から、レンタカー、あるいは、ニース市内までリムジンバスに乗り、ニース駅から、国鉄を利用する。Menton(マントン)は、一番、イタリアに近い街。マントンの旧市街を抜けて、海沿いに走っていくと、 (イタリアまで 1000m)の標識が立っている。ニースからイタリア国境まで、100kmほど。ニースから西に100kmほどで、Cannes(カンヌ)まで。ニース = マントン間の、ほぼ中間地点にMonaco(モナコ)が位置している。モナコは、全長3kmほどの国だから、レンタカーを借りれば、このあたり一帯の海岸沿いを、風光を楽しみながら、行ったり来たりできやすい地方である。食事の秘訣は、イタリアに近づけば近づくほど、お値段もリーズナブルで、味が美味しくなる !! というポイント。マントンまで来たら、是非、ちょっと向こうのイタリアまで、パニーニや、ピザを食べに、足を伸ばそう!

銀翼のカモメさんは、フラメンコ音楽情報サイト「アクースティカ」でもエッセイ連載中
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