パリ大好き人間の独り言、きたはらちづこがこの街への想いを語ります。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
第28回  椅子   2005.08 エッセイ・リストbacknext
 パリ人はお散歩が大好きだ。なぜ、こんなにもお散歩がすきなのか?と考えてみると、多分、狭いアパルトマンに閉じこもっていたくないのだと思う。日本の家はひところ「ウサギ小屋」と称されて、ひどく貧しい住環境にいる・・・というような、やや偏見に満ちたフランス人の発言もあったが、実はパリはパリで日本的感覚からすれば、住環境はさほどよくはない。なんと言っても、ほとんどすべてが集合住宅で、一軒家に住む人はまずいない。日本のように「猫の額」のような庭をも、普通は持ち合わせていないのである。
 日当たりの悪い集合住宅に住めば、誰でもちょっと外に出てみたくなる。家具に陽光があたることを嫌うフランス人は、北向きの部屋に住むことも平気だが、人間は外気を吸って、十分にお日様に当たりたいらしい。その結果、休日ともなれば、猫も杓子もお散歩、と相成る。
 赤ちゃんたちも生後2週間くらいからさかんに外気浴を勧められ、よほど天気の悪い日でもない限り、近くの公園や街路樹のある大きな通りには乳母車の親子連れも多い。そして週末ともなれば、そぞろ歩きの老若男女、散歩人口は一気に上昇する。

 そんなお散歩に欠かせないのが、ベンチである。
 足元もおぼつかないご老人を見ていると、ベンチがあるから散歩に出られる、たくさん散歩するからちょっとベンチで一休み・・・・と卵と鶏のような関係が成り立っているのが分かる。角のキオスクで新聞を買って、家に帰る道すがら、ちょっとくたびれてそのままベンチに座り込み、いつの間にか新聞を読みふけっている、といった風情のおじいさんもよく見かけるが、もしかしたら、もともと家に戻るつもりはないのかもしれない。
 そういえば、私も若い頃、家の周りのベンチをよく利用した。
 夕方、ちょっと着替えて、お昼寝から覚めた息子をだっこして、ヴィクトル・ユゴーの通りをあてもなく歩く。そして、疲れるとベンチに座った。生後6ヶ月くらいの赤ん坊との、長い一日。インターネットはおろか日本の新聞も手に入れるのが難しかった時代に、日本からも世界からも取り残されてしまったような気分の若い母親を慰めてくれたのが、このベンチだったのだ。ベンチに座っていると、必ずと言ってよいほど、誰かが声を掛けてくれる。東洋の赤ちゃんは‘エキゾチック’だから、みんなの注目の的になれる。そして私は、夫を朝送り出してからその日初めて、「大人」と口をきいた。







  「声を掛ける」と言えば、もっと愉快なベンチにまつわる思い出もある。
 それは先のエピソードよりもさらに前のこと。私は、出産を2ヵ月後に控えた妊婦で、52番のバス停の横のベンチに座っていた。凱旋門を目の前にした交差点で、程よい夏の光を浴びながら、持っていた雑誌を広げた時だった。赤信号を前に一台の車が止まった。オープンカーから、「マドモアゼル、送りましょうか?」という声がかかった。30代と思しき男性は、丁寧なフランス語で、「52番ならオペラ方面でしょう?通り道ですから」と続けた。
 にこやかに二言三言、言葉を交わし、鄭重にお断りした。
 ラテン系の男たちが女性に声を掛けるのは特別のことではない・・・とは言うものの、もちろん、「車に乗る」のは言語道断である。若い、「いかにも」といった感じの男なら、ニコリともせず即座に断ったはずだ。口もきかなかったかもしれない。
 しかし、その時の私の胸中はむしろ、「この男性の淡い期待を裏切ってはお気の毒だ」というものだった。ローラ・アシュレーの黒地に小花模様のワンピースは、別にマタニティウェアではなかったが、立ち上がれば、7ヶ月(フランスでは日本の‘十月十日’と違い、正味9ヶ月で表現する)のおなかは一目瞭然!

  一体、パリの街に、ベンチはいくつあるのだろう・・・
 公園の椅子の数は世界一(といってもきちんと調べたわけではないが)、なにしろ、ちょっとした木陰にはいくつもいくつも美しいラインのスティール製の椅子が無造作に置かれている。そして公園内の小路には5メートルおきくらいに、木製のベンチ。6−7センチ幅の細長い板を横に並べ、座の部分から背もたれまでが流れるようにデザインされたベンチはいかにも座り心地がよさそうに見える。そして大きな歩道には今度は無骨な厚板。まるで平均台みたい。
 緑色の、いろいろな形のパリの椅子たちは、今日も小さなドラマを生み出しているかもしれない。
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