ペール・ラシェーズ墓地は、およそ200年前に、当時のパリ市の中心部から東のほう(現在の3,4,10,11,12区)の居住者のために作られた墓地だそうだ。それまでは、墓地は教会にあった(つまり、パリのあちらこちら)のだが、中でも一番大きなパリ中心部、現在のレアル近辺のイノサン墓地で起きた土砂崩れ以降、有害なガスの発生や悪臭騒ぎでパリ市内の教会墓地は次々と閉鎖されることになる。そしてあふれ出た遺骨は地下採石場に集められた。
1801年、セーヌ県知事は衛生上の観点から、当時のパリ郊外に囲い地を作り、公共墓地とすることを命じ、北のモンマルトル墓地や南のモンパルナス墓地とともに、ペール・ラシェーズは東の墓地として誕生した(1804)。現在でもパリ市内の三大墓地としてそれぞれ名を馳せているが、埋葬された有名人の数では群を抜いている。フランスに興味のない人でも知っている、歴史上の人物の多くが眠っている。
300年以上たった現在でも最も上演回数の多い劇作家モリエール、そして同じ頃生まれた寓話作家のラ・フォンテーヌは立派な棺型の大きな墓に仲良く並んでいる。画家では、『グランド・オダリスク』のアングル、『民衆を導く自由の女神』を描いたドラクロア、『メデューズ号の筏』の大作を残した早世のジェリコもいる。国民的作家バルザックのおなじみの顔が背の高い墓石の間に見え、大きな平らの墓石にはプルーストの名が刻まれ、アポリネールの無造作な石の墓標もある。そしてシャンソンのイヴ・モンタンの終の住処はシモーヌ・シニョレのお隣だ。
こうして、一つ一つ挙げていたらきりがないほど、豪華な顔ぶれだが、歴史上の人物の一番人気はショパン。20歳の時にポーランドからパリにやって来て39歳で死ぬまで、多くの美しい曲を創り出した作曲家のお墓には、今でも生花が絶えることがない。
石畳をぶらぶら歩いていると、お墓の形にも時代が見える。礼拝堂のある小さな家のようなほこらはこの墓地の最初の頃のものだろうか。苔むした石や、錆びた鎖で戸口がふさがれたままのものが、もう訪れる子孫のないことを思わせて、少し寂しい。
墓石の彫刻に一番多く見られるのはもちろん十字架をかたどったものだが、ナポレオンのエジプト遠征後の流行はオベリスクのようだ。林立する中にもちろんシャンポリオンの墓もある。そしてまた、女神像のような女性や花の彫刻など、それぞれに趣向をこらしたデザインの石がところ狭しと置かれている。
地面に平たい墓石を置くだけの、シンプルなものは20世紀に入ってからのようだ。有名人は別として、お墓のほとんどは、日本と同じように、一族の墓所である。区画ができているようないないような、整然と並んでいるようないないようなそれぞれの墓に、何人もの名前が刻まれ、周囲にはきれいな花壇があしらわれる。
11月1日“トゥッサン(諸聖人祭)”は、フランスでは祝日になっている。もともとはカトリックの行事の一つだが、人々の生活としては、“お墓参りの日”とでも言えばよいだろうか、日本のお盆のようなものかもしれない。お盆とかお彼岸に日本人がお墓参りをするように、多くのパリ人もまた11月1日にお墓参りをする。そして、その時に持っていくのは菊の花だ。
10月になると、街中の花屋に菊の鉢植えがあふれる。一輪一輪が立派な日本の菊ではない。どんどん枝分かれして、次から次へとつぼみをつける、丈の低い色とりどりの野菊だ。
とある週末、隣人のH夫妻が、車に菊の株をたくさん載せて、「今日は晴れているから、植え替えをしてくる」と朝早く出ていった。どこの国でも、親や祖先を思う気持ちの表し方は同じなんだな、と思う。
10月の花屋 |
ラ・フォンテーヌとモリエール
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