噴水が見たいから、というわけではないけれど、若い友人のまきちゃんと約束をした。夫たちが留守だから女二人で夜ご飯を食べようということになったのである。
私たちの行動範囲は、いつもほとんどパリの西の方に限られているが、その時は、彼女がまだ食べたことがないギリシャ料理を試そうということで、それならば、やはりカルティエ・ラタンで、とあいなった。
「それじゃ、7時半にサン=ミッシェルの噴水の前でね」と、私は電話を切った。
そこは、待ち合わせの場所としてはうってつけで、東京で言えば、渋谷のハチ公のようなもの。左岸に疎い人でも、「サン=ミッシェルの噴水の前」と言えば、絶対に間違えることはない。サン=ミッシェル通りと、サン=タンドレ=デ=ザール広場との間の、ちょうど中洲のようにも見える三角広場に噴水があるからだ。
ここの噴水は第二帝政期の作品である。そもそも、サン=ミッシェル通りそのものが、オスマン男爵のパリ改造計画で作られた道路であり、それ以前は、小さなくねくねした道が、ごちゃごちゃとした建物を縫うようにあったのだと想像する。1700年代の地図をみれば、シテ島を貫き南北に通る道は、サン=ジャック通りのみである。
サン=ジャックに並行して太いまっすぐな道を作るように建物を整備したら、無味乾燥な壁面ができてしまったのだそうで、そこは噴水で装飾されることになった。
噴水のデザイン案には、ナポレオン1世の像なども候補にあったらしいが――天使が採用されて、よかったぁ、と個人的には思う――結局は今のものとなった。もし、ナポレオンだったら、この通りの名前も変わっていたのかもしれないし、そうしたら、今のように「待ち合わせの名所」になったかどうか……。(いや、案外、なったかもしれないですね。上野の西郷さんみたいに!)
サン=ミッシェル通りの反対側で信号を待っていると、“中洲”で少し不安げに眉根に皺をよせたまきちゃんが、あたりをキョロキョロ見回しているのが見えた。
「まきちゃん、待ったぁ?」
「ちづこさん、こんな学生街のど真ん中、どうして知ってるんですかぁ?」
まきちゃんが素っ頓狂な声をあげた。
もう何十年も前の夏、大学生だった時、友人と旅行者同士として落ち合ったのもここだった。「ケータイ」もなければ、公衆電話も簡単ではない――当時のパリは、カフェの地下室で、「ジュトン」という丸い札を購入して電話をかけるのが、“公衆電話システム”だった――時代でも、おまけにフランス語が全くできない友人とでもちゃんと会えたのだ、と、私には感慨深いものがある。
そして転勤して間もない“箱入りお嫁さん”のまきちゃんとも無事に会えたし。
あの時と同じように、淡いピンクの大理石の壁を背に、大天使ミカエルは岩の上に立ち、今も悪魔を足蹴にして、雄々しく剣を振り上げる。あの時と同じように、二匹のドラゴンが狛犬さながら、あふれ出る泉を守る。
そしてあの時の私たちのような若い人々が、人待ち顔で水辺に座り込んでいる。60センチくらいの高さの噴水の囲いは、腰をかけるのに、ちょうどいい高さなのだ。
サン=ジェルマン通りと並んで、カルティエ・ラタン(学生街)を代表する道でもあるサン=ミッシェル通り(Boulevard St.Michel)は、学生言葉では、「ブル・ミッシュ」と略される。
それは、教権主義を嫌う若者たちが、「サン」(聖)をつけずに呼び始めたからだと言われているが、そこまでこだわらずともいいではないか、と、政教分離がきちんとなされている現代フランスしか知らない私は思う。
何と言っても、ここの噴水もまた見ごたえがあり、かつ、清涼感あふれるものなのだから。 (次号に続く)