東京都千代田区お茶の水・・・
JRの駅名にもなっている《お茶の水》という地名は、江戸時代、この辺りから湧き出た水がとてもおいしく、将軍のお茶のために用いられたことから、そう名付けられた。
現在、東京で湧き水の出るところがあるのかないのかよくは知らないが(おそらく奥多摩にはたくさんあるだろうけれど、都内にあるとも思えない)、おいしい水がいつの時代にも話題になるのは、人間の生理的要求からかもしれない。「湧き水」だとか、「泉」だとかの言葉には、なんとも言えない魅力を感じる。
パリ市内にも、同じように湧水の出るところがある。
驚くべきことに、それは21世紀になった今も健在で、《パッシーのアルトア井戸》――アルトア井戸とはフランス語で湧水のこと。12世紀にアルトア地方の修道院僧が、初めて地中から噴き出す水の現象を見たことからこの言葉が生まれた――別名を《フォンテーヌ・スクアール・ラマルティーヌ》という。ブーローニュの森にほど近い、16区のラマルティーヌ広場にある給水泉のことだ。
なんでも、水源は地下600メートル近いところにあるのだそうで、それを汲み上げるようになったのはオスマン男爵の時代。盛んに給水施設が整えられた時代でもある。
現在の“井戸”の外観は、もちろん、第二次世界大戦以降の作品。ここは、装飾的に据えられた噴水(例えばフォンテーヌ・サン=ミッシェル)のような派手さは全くなく、単に壁面があるだけの給水泉ではあるが、ここから汲む水が、おいしい湧水、まさに、“パリ版お茶の水”であることを知っている近隣の人々は、大きな空容器を手に持ってやってくる。
フランス語のFontaine フォンテーヌという単語は、水が湧き出るところを意味する。だから、自然に地中から湧き出る泉も、人工的な噴水も、そして給水泉も、区別なく、フォンテーヌと呼ばれてしまう。
フォンテーヌの一つ、景観の一部として人々の目を楽しませるオブジェとなっている噴水が、パリにたくさんあることは前にも書いたが、‘作品’としても名高い《四季の泉》とか《軍神マルスの泉》とか、人々に水を供給するためのフォンテーヌのほうが、実は、もっともっとたくさんある。中でも数で圧倒するのが《フォンテーヌ・ヴァラス(ヴァラス給水泉)》だ。
篤志家であり、フランス人の血が流れるがゆえに、フランスを、パリを愛した一人の英国人がいなければ、プロシア戦争に負け、パリコミューンを経て疲弊した社会は、もっと悲惨なものとなっていたかもしれない。パリコミューン(1870)と、リシャール・ヴァラスが父親の莫大な遺産を相続したのが同時期だったのは、パリの街にとって、パリの人々にとって幸運以外の何物でもなかった。
ヴァラスは、水道料金の高騰(パリコミューンで、多くの送水路が破壊された)がゆえに、安価な葡萄酒へと走り、アル中となっていく低所得者層を、その悪循環から救うために無料の給水泉の設置を決意したのだ。
美術品にも造詣の深かったヴァラス自身が考えたデザインは、彫刻家をもうならせるものであったが、その給水泉の条件には、さらに、制作に費用がかからず、丈夫で長持ちするもの、なおかつ、目立ちつつもパリの景観を損ねないもの、という完璧さが加わった。
《イノサンの泉》に着想を得たという、女像を配した2メートルほどの高さの給水泉は、パリ市内に90余を数え、壁面利用の大型のものや水道栓のみの小型のものを合わせると、優に百は超す、一大事業であった。今でも、2年おきに深緑色に塗り替えられるこれらの給水泉は、パリの街並みにしっくりと溶け込み、そして今でも、人々に飲み水を提供している。
パリの《ヴァラスの泉》のことを私が知ったのはもうずいぶん以前のことだ。それを模した給水泉が作られ続けているのか、特徴ある女像の泉をあちらこちらで発見し、なんとなく興味を持った。
しかし、ヴァラスという人物が、美術品収集家として名高い、英国貴族、ハートフォード伯爵家の、最後の蒐集家となったリチャード・ウォレス卿その人であることを知ったのは、ロンドンに住むようになり、「セーブル焼きの素晴らしいのを所蔵している」と噂に聞いていた《ウォレス・コレクション》(英国の国立美術館の一つ)をしばしば訪れるようになってから、つまり、ごく最近のことである。