そんな個人的分析を、理屈の粘土を捏ねるように、捏ねては潰しているうちに、寒さが少しだけ緩み、日中はプラスの温度になってきた。そして雪は溶け、重さのある白は気配を消した。ちょっと暖かくなると、すぐに湿り気が出てくるのが、ナントの大気である。日本の湿り気とは異なり、乾燥した気候の中での、さらりとした湿り気である。このあっさりとした湿度は、大西洋から漂ってくるものらしい。日本の天然塩(瀬戸内海や、沖縄で採れる塩)と、大西洋のSel biologique (有機塩: ナントからも近い、Guerande = ゲランドや、Ile de Noirmoutier = ノワールムティエ島の塩)も味が違うのは、海水の構成成分だけでなく、大洋が醸し出す湿り気の違いからも来るのではないだろうか?地中海の塩(シチリア島の天然塩,etc.)も、また一味違う。世界中の海が、異なる気候の中で、それぞれに味わいのある塩を育んでくれている。
そして、La Loire(ロワール川)は、満潮時、大西洋の海の香(か)を乗せて、ゆっくりとナントまで遡(さかのぼ)ってくる。大潮の日には、ナントの街中にいても、鼻の奥に、幽かな海が聞こえる。私は、海の匂いが好きだから、そういう時は、もっと深く吸い込んでみる。すると、もう少し海が広がる。でも、それ以上吸い込むと、微細な海は消えてしまう。それくらい、繊細な海粒なのだろう。だから、もう1度、薄く、細長く吸ってみる。すると、雲母のようにfragil(壊れやすい)な、海の鱗片が、目の前に何枚も重なっていく。落花の桜や、積もる落ち葉のように、何枚も何枚も、重なっていく。青く光る鱗片は、重なる度に滴(しずく)となり、滴は、互いの滴を飲み込み、飲み込まれ、軽やかな波となっていく。波と波は、出会い、反発し、弾け、砕けて、白い泡となり、さわさわと囁きながら歌い、笑いながら崩れる。そして、薄い鱗片に戻っていく。青い鱗片は、また重なり、滴となり、波となる。その碧い動きを追っているうちに、空気の中の微細な海を吸い込んだ筈なのに、しだいに大きくうねっていく海に、いつの間にか飲み込まれてしまった自分に気がつく。こんな風に、空気が青い日、ナントの大気は湿っている。
青い湿度の中で過ぎた何日かは、遠い追憶の中の水平線のように、ふうわりと空色だった。その、やわらかい、つかみどころのなさが、硬質な寒気から私を救った。そして、とある明け方、空気の中に漂う、さらに確かな湿り気に、またしても、冬眠中のクマのように鼻をくすぐられ、目を開けてみる。と、街路灯の明かりが、空気の中の水の分子を照らし出しているように、ボーっと、暈(ぼか)し絵風に浮かび上がっていた。不思議な雰囲気に誘われるように起き上がってみると、朝靄がたちこめている。靄というのは、ぼんやりと浮遊しているようだが、案外、密度の高いものらしい。だから、すぐ近くが見えなくなるほど、大気中に充満できるのだろう。朝靄の厚みが、遠くを隠し、近くをぼやかし、夢のようにぼんやりした輪郭の中に、黒く緑のポプラが茫洋と存在している。その茫洋さの中に、1年前の冬の朝靄の情景(第12話 《Rue de la Ville en Bois (ヴィル・アン・ボワ = 樹の街通り)を塗り替える、季節の絵の具》序編)が、さらに茫洋と浮かび上がってきた。あの日は、冬のヨーロッパの結晶が、しんしんと伸びていく金属的な音を聞いたような気がして、冬という季節が刻む秒針かと思った。が、今日の靄は、もっと茫洋としている。空気に浮遊するミクロンの水滴が、しっとりと柔らかく、前回の、無機的な寒気と比べると、かなり有機的な感じである。ちょっと絞ったら、空色の水が滴り落ちそうな、たっぷりと湿った空気。もしかすると、去年より、春に近い朝靄なのかもしれない。
春は近いのだろうか?冬眠中のクマなら、毎年の春の訪れも、ちゃんと知っているのだろう。冬眠から醒める筈のクマが寝過ごした、などという話は聞いたことがないから、彼らは、起きるべき時期を、察知できるバイオ時計を持っているに違いない。しばらく、薄綿のちぎり絵のような靄を眺めながら、コーヒーでも沸かそうかと思ったが、まだ暗い。台所もひんやりと静まり返っているし、ステンレスのCafetiere(キャフェティエール)に触るのも冷たいし、…。もう1度、ベッドに戻ることにした。クマだって、まだ、もう少し眠っていたいだろう。空色の夢は、さっきの続きから始まってくれるだろうか? 追憶の彼方に滲んだ水平線の丸さが、蜃気楼のように碧く浮かび上がってくる頃、春はもう、そこまで来ているのかも知れない。この茫洋さゆえに、『春眠暁を覚えず』なのだろうか?
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雪融けの尖り屋根。気温が零℃を回復した日、
まだ遠い春の到来を、ちょっと信じられる日。。
陽があたり、雪が急速に融けていく。
大気が緩み、地面も水っぽい
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靄の中に、沈む教会。尖り屋根は、全く見えない。
薄い靄の中に佇む、白壁の館。遠景の木立が、 透かし模様の入った便箋のようなデザインを創っている。
靄の湿り気の中に、ポプラが佇む。
ノワールムティエの塩(セル・ファン)
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