パリ大好き人間の独り言、きたはらちづこがこの街への想いを語ります。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
第12回 午後の散歩 2004.1 エッセイ・リストbacknext
  フランス人との決して軽くない昼食が終わった。重くなったおなかを抱えて、今日はどこを散歩しようか・・・
 さしたる用事のない日、大きく膨れた胃袋の自分と長い午後(フランス人にとって“夜”と言えば8時過ぎのこと。7時くらいまでは“日中”という感じ)とを少しもてあまして、私が向うのはヴィクトール・ユゴー街である。以前、6年余りを過ごしたこの辺りへと、まるで帰巣本能のように戻って来てしまう。16区の北部、凱旋門とボア(森)を結ぶこの通りは、街路樹のあるゆったりした歩道としゃれたブティックを持つ、第一級の散歩道だ。
 この道には何でもある。ちょっと名前の通った洋服や靴のお店。高級食料品店、有名レストラン、カフェ… でも、いわゆる繁華街とは違うから、人ごみもなければ、観光地にありがちな猥雑さもない。だから、そぞろ歩きをするのがとても楽しい。ウインドーを覗きながら、「今年の流行はやっぱりモーヴ(薄紫色)だわね」などと独りごちながら。
 オスマンのパリ都市計画(1860)でパリ市に組み込まれ、16区となったこの地域は、比較的家並も新しく(といっても軽く百数十年ほどは経ているのだが)、とても美しく整理されている。最初の駐在の時、家探しでたくさんのアパルトマンを見学しながら、最終的にこのヴィクトール・ユゴーから一歩入ったところに決めたのも、ひとえに街の美しさだった。

 いつものように、凱旋門を背にして、左側の歩道を歩く。あまり、理由はないのだけど、昔からいつも、そう。そして時々、思い出したように右側に渡る。
 有名なブティックと軒を並べて、おそらく100年以上昔からあったであろう、葉巻屋、乗馬用具屋、文房具店、子供服店、花屋、床屋…。老舗の地味なたたずまいもまたパリのひとつの姿だ。古めかしいだけではない落ち着いた味わいのショーウィンドーに、ちょっとしたインテリアのヒントを見つけることもある。
 300メートルほど歩いて、少し左に入ったところが以前の住まい。そしてさらに下ると噴水のあるプラス(広場)。カフェ、教会、チョコレート屋、郵便局。ああ、この道を何回歩いたことだろう。ここには私の思い出が一杯詰まっている。
 さらに数百メートル行くと、16区北部の胃袋ともいうべき、ベルフイユの道と交わる。八百屋、肉屋、魚屋、チーズ屋、おかず屋、パン屋…有名な街頭マルシェにひけを取らない上質の食料品が並ぶこの小さな通りも、午後のひと時はひっそりと静まる。学校が引ける4時すぎまでの、しばしの休息。

 腹ごなしに、さらに歩こう。ユゴー街の最後は商店がまばらになるかわりに、美しい家並みが見える。あと少しでブーローニュの森だ。
 瀟洒な住宅の続くアンリ・マルタン街とぶつかるところには、巨匠ロダンの制作になる『ユゴーとミューズたち』のブロンズ彫像が植え込みの中にひっそりと置かれている。岩に腰をおろした裸のユゴーの、右耳に手をあて、左手を指先までのばした表情は決して穏やかな老人のものではない。
 国民的英雄だったヴィクトール・ユゴーは、20年に亘る亡命生活の後、晩年をイロー街130番地で過ごした。1881年2月、80歳の誕生日を祝福し、フランスはその通りを「ヴィクトール・ユゴー街」と改名した。その後、革命100年記念(1889)のために、ロダンに“ユゴー像”を依頼した。
 ロダンはそれより以前、最晩年のユゴーに接し、その強烈な個性に対峙し、多くのデッサン、多くの試作を残していた。そして試行錯誤の末に出来上がった彫像ではあったが、残念ながら賛同を得られず、文豪がパンテオンに葬られて(1885)から20年余り後、ミューズを除いたユゴー像のみがパレロワイヤル広場で披露された。1909年のことだった。





この小路に魅せられて・・・


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