メジチ家のカトリーヌ、フランス国王アンリ2世に輿入れしたこのフィレンツェのお姫様のことは子供の頃世界史で習った(ような気がする)。でも、マリ・ド・メディシスのことは習っていない(と思う)。受験には日本史を選択したから、世界史の知識は乏しいし・・・。だから以前は「マリって誰よ。カトリーヌの間違いじゃないの」なんて調子だったのだが、パリに住んで、西洋史が身近になった。
このマリさん、なかなかの女性で、カトリーヌに負けずとも劣らずの波乱万丈の一生を遂げている。
カルティエラタンとモンパルナスの間に広がるリュクサンブール公園は、パリ市民の大好きな公園の一つで、素晴らしいその庭はパリ市内では最大の広さを誇る。作家は好んでここを散歩すると聞くが、パリ大の学生たちにも人気の場所であり、また週末ともなれば、多くの老若男女でにぎわう憩いの空間だ。
メリーゴーランドやろばに乗る子供たち。テニスコートで汗を流す人。ペタンク(銀色の玉を投げて競うスポーツ)に興じる男性陣。城の前の大きな噴水の縁に座り込む若者たち。手をつないでゆっくり散歩する老夫婦。ベンチで厚い書物を開く人。
公園の端、地図上で北側に位置する建物は、現在、セナ(上院)として使われているのだが、正式名称は「リュクサンブール宮殿」。夫(アンリ4世)亡き後の1612年、リュクサンブール・ピネイ公爵の館と周りの土地を購入したマリ・ド・メディシスが建てた城である。
宮殿とはいえ、その建物はさほど大きくない。マリ王妃(正式には国王ルイ13世の母后マリ)が、幼少時代に慣れ親しんだ、故郷フィレンツェのピッティ宮を思い出しながら作らせたとのことだが、立派で、荘厳なイメージのピッティ宮に比べれば、とてもかわいらしい、ちょうどよい別邸というところだ。
しかし、彼女自身がかわいらしい女性だったか、というとそれには大きな疑問符がつく。なぜなら、夫が暗殺され幼い息子が王位についてから、摂政として国政に君臨することになったからである。しかも、息子が成人してからも、国王をしりぞけ、自分が権利を握ろうとしたために、親子喧嘩(こうなるともう、親子の域はとうにはずれているのだが)は絶えず、息子は息子で取り巻き連中と母后一派の掃討をたくらむという醜い政治劇を展開していた。
こんなドラマは、古今東西の歴史物語によくあることかもしれないし、有名な女傑たちのエピソードは数多く存在する。でも、単なる物語に終わらないのがマリ・ド・メディシスのすごいところ。自分の波乱の半生を時の画家、バロック絵画の巨匠ルーベンスに描かせてしまった(1622‐25)。
つまり、証拠が残っているのだ。400年近くを経た、現代の私たちも、ルーブル美術館へ行けば、彼女の半生を目にすることができる。いや、体感することができるというほうが正しいかもしれない。
自分の誕生を、まるで聖誕の図のように描かせ、人生の節目節目を神話や聖書にからませながら表現させたマリの、この壮大な'絵巻'は24枚の油絵からなる。その大きさもさることながら、ルーベンスのダイナミックな筆が、マリ・ド・メディシスの女傑ぶりを余すところなく伝えているから、何度見てもその迫力に圧倒され、「すごい人ね・・・」とため息が出てしまう。
この連作は完成したリュクサンブール宮殿の2階の西側ギャラリーを飾るためのものだった。しかし、息子ルイ13世との和解を経て、『真実の勝利』と題する24作目が描かれた後も、母子の確執は収まらない。宮殿でこれらの作品に囲まれながら、ゆっくりと静かな晩年を送る・・・というのはマリ・ド・メディシスの見果てぬ夢となってしまった。彼女は1629年にパリを逃れ、その後1643年に亡命先のケルンで亡くなる。だから、2階東側のギャラリーを飾るはずだった夫アンリ4世の武勲をテーマとしたルーベンスの作品も未完のままで、フィレンツェのウッフィッツィ美術館にあるらしい。(次号に続く) |