パリ大好き人間の独り言、きたはらちづこがこの街への想いを語ります。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
第32回  偉人(その1) 2006.04 エッセイ・リストbacknext
 またこの季節がやってきた。
 まだ少し冷たいけれど冬の厳しさは全く感じさせない優しい風とともに。にぎやかなチョコレート屋さんのショーウィンドーの卵たちとともに。復活祭休暇で街に溢れる子供たちや国内外からの観光客とともに。
 おひさまの光が、思いなしか明るい表情の人々の上で、ふっくらとした若芽をつけ始めた街路樹の枝を見守るように降り注ぐ。
 春だ!
 マルシェ(市場)にアスパラガスやいちごがお目見えした。テレビでも、画面いっぱいに山と積まれた野菜たちを映し出し、新しい品種とか、産地などの紹介をしている。有名シェフが創意工夫を凝らした一品を披露する。農業国であり、しかも食いしん坊のお国ならではの春のシーンである。

 そんな空気に誘われて、たまには遠くのマルシェを「敵地偵察」という感じで訪れてみるのも楽しいものだ。
 例えば、ムフタールのマルシェ。カルティエ・ラタンの端っこに位置するこの辺りは、パリ市の中でも古い地域である。サン・メダール教会の前の広場にはテントを張った街頭マルシェがあり、そこからムフタール通りの昔ながらの狭い石畳の道に、「下町の胃袋」といった感じの常設マルシェの店舗が並ぶ。
 昔、フランス語の勉強のために読んだ少年少女文庫のような本の、確か、その中の一冊に「ムフタールの魔女」が登場し、大きな釜を暖炉に据えてぐつぐつと、おいしそうな、でもちょっと得体の知れない料理を作っているようなくだりがあったのだが、ムフタールのなだらかに上る石畳の道は、そんな童話をふと思い出させるような、懐かしい昔の気分そのままのパリの下町の雰囲気を今でも醸し出している。歩道の端っこにはアコーディオン弾きもちゃんといて、50年代のシャンソンのメロディーも聞こえてくるから、ちょっとタイムスリップしたみたい。

  パリが人々の集落を作り始めた頃――それは、日本史でいったら卑弥呼とか聖徳太子とか・・・要するに、歴史というよりは「物語」というような時代ではあるけれど、この辺りは、その「史実」をいつの時代もずっとひきずって来た、本当に古い地域なのだ。





サンテティエンヌ・デュ・モン教会

 マルシェが途切れ、食堂という表現が似合う小さなレストランが続く坂道を上り詰めれば、そこはパンテオンの裏手、サンテティエンヌ・デュ・モン教会の横。交差する道はクロビス通りである。
 そう、彼、フランク王国を作った、メロヴィング朝三代目のクロビスこそがフランスの最初の王様であり、彼が王妃クロチルドと自分のための墓所として教会を作ったのが、まさに、パンテオンのあったこの場所なのである。時は西暦507年。クロビスは初代キリスト教信者の王様でもあった。
 そしてその教会に、敬虔なるキリスト教徒であり、その昔(451年)、アッティラの攻撃がオルレアンまで迫った時、慌てふためくパリ市民に対して、冷静さを訴え「フン族は必ず滅びる」と言い続けたジュヌヴィエーヴ(私の記憶違いでなければ、確か、王妃クロチルドが尊敬していた女性で、その影響もあって王もキリスト教に改宗したらしい。この夫婦も嚊天下!?)が埋葬されると(512年)、人々が頻繁に墓参りに訪れるようになった。要するにこの地は「巡礼地」となったわけである。そして、ジュヌヴィエーヴはパリの守り神となって人々があがめ敬う対象となっていったのだ。彼女自身もそれ以前のパリの守護神と言われたサン・ドニを深く信仰していたらしく、相乗効果だったかもしれない。

  パンテオンは、「国の偉人たちを合祀する霊廟」と辞書にある。フランスという国が、誰を「国の偉人」としているのかを知るのは、「総理の靖国参拝」で議論も喧しい日本のことを考えてもとても興味深いのだが、そもそも、かつてのクロビスの墓所の地が、なぜパンテオンとなったのか・・・。千年以上もの時が流れても、ジュヌヴィエーヴという一人の女性の伝説が尊重され、セーヌを見下ろすこの小高い丘が聖ジュヌヴィエーヴの丘と呼ばれて来たことが不思議でもあり、また心地よくもある。フランスは伝統的に女性崇拝の国だと思いたい!!
 現在「パンテオン」としてこの丘に鎮座する荘厳な建物は、ルイ15世が大病の折に聖ジュヌヴィエーヴの教会建設を誓い、祈祷したことに端を発する。(次号に続く)。

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