サンテティエンヌ・デュ・モン教会
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マルシェが途切れ、食堂という表現が似合う小さなレストランが続く坂道を上り詰めれば、そこはパンテオンの裏手、サンテティエンヌ・デュ・モン教会の横。交差する道はクロビス通りである。
そう、彼、フランク王国を作った、メロヴィング朝三代目のクロビスこそがフランスの最初の王様であり、彼が王妃クロチルドと自分のための墓所として教会を作ったのが、まさに、パンテオンのあったこの場所なのである。時は西暦507年。クロビスは初代キリスト教信者の王様でもあった。
そしてその教会に、敬虔なるキリスト教徒であり、その昔(451年)、アッティラの攻撃がオルレアンまで迫った時、慌てふためくパリ市民に対して、冷静さを訴え「フン族は必ず滅びる」と言い続けたジュヌヴィエーヴ(私の記憶違いでなければ、確か、王妃クロチルドが尊敬していた女性で、その影響もあって王もキリスト教に改宗したらしい。この夫婦も嚊天下!?)が埋葬されると(512年)、人々が頻繁に墓参りに訪れるようになった。要するにこの地は「巡礼地」となったわけである。そして、ジュヌヴィエーヴはパリの守り神となって人々があがめ敬う対象となっていったのだ。彼女自身もそれ以前のパリの守護神と言われたサン・ドニを深く信仰していたらしく、相乗効果だったかもしれない。
パンテオンは、「国の偉人たちを合祀する霊廟」と辞書にある。フランスという国が、誰を「国の偉人」としているのかを知るのは、「総理の靖国参拝」で議論も喧しい日本のことを考えてもとても興味深いのだが、そもそも、かつてのクロビスの墓所の地が、なぜパンテオンとなったのか・・・。千年以上もの時が流れても、ジュヌヴィエーヴという一人の女性の伝説が尊重され、セーヌを見下ろすこの小高い丘が聖ジュヌヴィエーヴの丘と呼ばれて来たことが不思議でもあり、また心地よくもある。フランスは伝統的に女性崇拝の国だと思いたい!!
現在「パンテオン」としてこの丘に鎮座する荘厳な建物は、ルイ15世が大病の折に聖ジュヌヴィエーヴの教会建設を誓い、祈祷したことに端を発する。(次号に続く)。
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