パリ大好き人間の独り言、きたはらちづこがこの街への想いを語ります。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
第33回  偉人(その2) 2006.05 エッセイ・リストbacknext

パンテオン
 さて、ルイ15世の礼拝堂建築計画である。
 建築家スフロに設計を依頼(1755)したものの、国王は資金集めに苦労したらしく、礎石は1764年、完成はスフロ没後の1790年であった。その間、実に35年もの歳月が流れてしまったのだ。求心力のなくなってきていた王政の所為なのか、それとも単に仕事がのろいだけなのか・・・(私の興味は尽きることがない)。おまけに革命をも経験し、フランスはブルボン王朝から共和政となっていた。
 1791年、議会はこの礼拝堂を祖国の自由のために献身した人の墓所とし、まずはミラボーを埋葬した(しかし、後に彼はこの墓所から移されていて、現在はない)。まさにここに「パンテオン」としての歴史が始まる。ちなみに、1780年に亡くなった建築家スフロも1829年2月25日に埋葬された。
  帝政、共和政などめまぐるしく変化する混乱の時代にあって、その役割は「教会」であったり「パンテオン」であったり、時の権力者の意向に揺れはしたが、1885年6月1日、大勢の弔意客の見守る中に行われたヴィクトル・ユゴーの葬儀以来、「宗教からは独立した、民のための寺院」そして「偉人たちの霊廟」として多くの著名人を埋葬し、現在に至っている。
 ギリシャ神殿のようなパンテオン正面列柱の前に広がる広場から、ルクサンブール公園までまっすぐに伸びる短いけれども太い通りはこの建築家の名前を擁し、通りの両側、広場を囲むように曲線を描く二つの建物は、現在は5区の区役所とパリ大学法学部だが、もちろん、これら全体がスフロの設計である。派手さはないけれど、とても美しい広場だと私は思う。そして周辺にある ソルボンヌ初めパリ大の各校舎やル・グラン高校、コレージュ・ド・フランスなどの荘厳な佇まいを見ていると、「さぞかし勉学に励めることだろう」と思うが、これは贔屓目にすぎないかもしれない。どこの国も学生の質が落ちた…という話題に事欠かないようだ。
 神殿の階段を登り、中へと入る。いくつもの大きな柱で支えられた薄暗い礼拝堂の空気は外の春の気配とは無関係に、ちょっと湿って冷たい。
 礼拝堂を右からゆっくりと回る。
 中央には「フーコーの振り子」。1851年にここに集まったパリの名士たちはどんな顔をして実験を見つめていたのだろう・・・そのゆっくりとした球の動きは今でも、地球の自転を証明し続けている。そして柱の横には20世紀初頭になって置かれた彫刻。これらは、革命後の転換期に重要な役割を演じた思想家、論客、学者、そして議会へのオマージュである。
 ドームのある礼拝堂は決して珍しいものではないのだが、鉄骨を入れた石組みの三重クーポールは常識を超える重さであったらしい。建物が崩れないようにと、当初あった窓はつぶされ、全体が壁で覆われてしまった。そこで1874年以降、壁面にはキャンバス地に油彩で描かれたフランスの重要な歴史の場面が、まるでフレスコ画のように、貼り付けられた。

パリ大学法学部


聖ジュヌヴィエーヴ
 壁画の多くがもちろん聖ジュヌヴィエーヴのエピソードである。かの有名なピュビ・ド・シャバンヌが描いているのだから、当時の政府の「国」への思い入れが感じられる。そして、クロビスの洗礼やシャルルマーニュの戴冠(西暦800年。ローマにて法王による「西ローマ帝国皇帝」の戴冠式)のシーン。カロリング文字や学校設立という偉業を意味する壁画を見ていたら、夫の話を思い出した。「シャルルマーニュがいなかったら、学校なんか行かなくてすむのに、っていう戯れ歌を子供のときに歌ったよ」。

マリアンヌ


キュリー夫人
 そして、十字軍遠征やフランスの議会政治、同業組合、ソルボンヌ設立などを成し遂げ、聖人にまで祀り上げられた国王ルイ9世(サン・ルイ)やジャンヌダルクの物語などなど、本当にフランスの栄光の歴史が満載だが、描かせた当時の政府が名実共に共和政となった後であるにもかかわらず、過去の名君を尊敬し続けていることがとても印象的だ。そして、フランスの危機を救ったのはいつも女性であること、勝利のイメージはつねに「女神」であることを思い、フランスの懐の深さも感じずにはいられない。だからこそ、今でもフランスの象徴は「マリアンヌ」という女性なのだ。

  ところで、地下クリプト(納骨堂)だが、1791年のヴォルテール、1794年のルソー以降、ナポレオンの第一帝政時代に「教会」として仲間の軍人が多く埋葬されたがこれは例外であり、「パンテオン」としては軍人は祀らないという方針を貫いている。
 ヴィクトル・ユゴーに続いて、エミール・ゾラが没後6年にあたる1908年に、1920年には第三共和政、真の共和国誕生の立役者であった弁護士ガンベッタ(1838−1882)が殿堂入りした。
 「パンテオン入り」は時の大統領が決定するのだが、ミッテラン大統領時代にキュリー夫妻(1995年)やアンドレ・マルロー(1996年)、そして記憶に新しいところでは、アレクサンドル・デュマが2002年11月30日に、なんと没後百数十年を経て埋葬されている。
 「国に貢献した偉人」の数は現在90人あまり。スペースは300近くあるというから、まだまだこれからも誰が入るのか興味深いところだが、今のところ「偉人」の中に女性が2人しかいないというのもまた現実である。
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