パリで活躍する素敵な方々にインタビューし、それぞれの「モンパリ」をお聞きします。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
マダム・ボ−シェに聞く 
2005.10
 皆様、コンセイユ・デタという名称を聞いたことがあるでしょうか。コンセイユ・デタは現代の日本にはないもので国事院、参事院、又は国務院と訳したりしていますが、ここではそのままコンセイユ・デタのまま通します。この機関はル−ブル美術館のすぐ横にあるので、皆様の中にもああ、あれかと思われる方もいらっしゃるかと思います。リボリ通り側にパレ・ロワイヤル広場がありますが、その広場に面した建物がそれです。.ルイXIII世の時代に、彼の宰相であったリシュリュ−枢機卿が建てさせたパレ・カルディナル(枢機卿館)が幼いルイXIV世に遺贈されたため、パレ・ロワイヤル(王宮)と呼ばれるようになったのです。18世紀にはフィリップ・ドルレアンのものになり、建築家のヴィクト−ル・ルイが後ろの回廊部分を改造しました。有名な劇場、コメディ・フランセ−ズが横にあります。正面がコンセイユ・デタです。他の裁判所と同様,傍聴できるシステムがあり(金曜午後のみ)、審議の透明性を図っていることがわかります。身分証明書さえあれば入れますので、フランス語がよくわかる方は、歴史的建造物の見学も兼ねて傍聴してみてはいかがでしょう。

 コンセイユ・デタには二重の役割があります。政府の法案を国会(下院)に提出する前に、政府にアドバイスすることと、行政上の最高裁判所(大審院)の役割を担っているということです。つまり、個人又は企業と公機関の係争を調停する役割です。マダム・ボ−シェはコンセイユ・デタで係争局次長だった方です。今回はその方にお話を伺いました。

 1927年にパリで生まれたジャクリーヌ・ボーシェ氏は今年78歳になります。カトリック系の学校から始まり、超エリ−トの進むエナENA(Ecole Nationale d’Administration)に女性として初めて入学を果たしました。E.N.A.は第二次世界大戦直後、1945年に作られたもので、現在のシラク大統領やド・ヴィルパン首相他を輩出している、グラン・ゼコ−ルと呼ばれるエリ−ト校の一つです。そして1952年にやはり女性として初めてコンセイユ・デタに入った“跳んだ”女性です。キャリア女性のはしりといってもいいでしょう。男だけの砦に果敢に挑み、気負わず、何気なくやり通して、私生活でも3人のお子さんに恵まれ、女性としての幸せをも両立させた女性です。
勲章:コマンドゥール・ダン・ロルドル・ドゥ・ラ・レジョン・ドヌール、 コマンドゥール・ダン・ロルドル・ナショナル・デュ・メリット
 ■ Interview
1、 随分ご苦労があったでしょうね、男性の牙城に入っていったわけですから。

 いいえ、苦労という苦労はしませんでしたね。初めは皆さんちょっと驚いたようですけれど...。又、ちょっと面白くないという顔の人もいくらかいたかもしれませんが、皆さん、育ちがいいせいか、そういうことを表には出しませんでした。あとはスム−ズにいきました。嫉妬もなく、勿論、女性だからということでちやほやもされなかったかわり、女性だからといって蔑視されることもありませんでした。

2、 私生活を犠牲にされたのではありませんか?

 いいえ、全然、学生のときに知り合ったピエ−ルと1953年に26才で結婚しました。つまり、コンセイユ・デタに入って一年後です。そして他の既婚女性と同じように3人の子供をもうけました。あの当時は住み込みのべビ−シッタ−を見つけるのが比較的楽でしたので割りにスムーズにいったのだと思います。

3、 でもお子さんが病気になったりハプニングがあったりしませんでしたか?

  勿論問題はあるといえば常にあります。でもまず第一に子供達の理解がありました。邪魔をしてはいけないとよくわかっていましたね。子供の病気のときは家に仕事を持っていって時々子供の様子を見ながらやりました。勿論、仕事をしていても子供の病気のことは頭を離れません。でもそれは働くことを選んだ女性の宿命です。私の世代には最高のディプロムを手にしながら、それまでの風習でキャリアの道を歩まなかった女性も多いのですが、その人達はその人達で、職業に就かなかったことを後悔しています。どちらにしてもジレンマがある訳なんですね。

4、 ご主人はフランス学士院の会員(アカデミ−会員)ですね。

  ええ、最初はモロッコの大学教授から始まり、最後はパリ大の総長になったのですが、引退する少し前に、アカデミーフランセ−ズの科学哲学部門のメンバーに選ばれたのです。いつも私を支え助けてくれました。この彼の支えというのがなかったら、私は仕事にかかりきりになれたかどうかわかりません。主人の支えが私のキャリアの成功のキーポイントになっています。

5、 そしてコンセイユ・デタの係争局次長になられたのですね。

 はい、セクションの中に10の(養成課 )があってその一つのシェフを務めた後、1987年に係争局次長に任じられました。でも普通にキャリアを務め上げれば誰でもなれるんですよ。とはいえ、誰にどの役職を任命するかはただ、長期勤めただけ、というのだけではやはりどうにもならないんです。実績とか、何に適任かがものをいってきます。

6、 局長になることもできたのですか 。

 そうですね、理論的にはそうなることも不可能ではなかったかと思います。といいますのも、フランスでは公務員の間での性差別はなくなっていますし、コンセイユ・デタは特にそれが顕著です。男性、女性の差はまったくありません。何人かの女性はセクションの局長になっています。コンセイユ・デタでは副総裁に次ぐ最高の地位になんです。(ちなみに総裁は名誉職で、法務相が努める)。
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