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セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
from NY2003.05 backnext

1月のコソボからの手紙によせて
本欄1月のコソボの新年の花火の模様を語った手紙に対して、現在ニューヨークにお住まいの益子卓さんから、次のような反響がありました。


日本政府と国連の援助で再建された学校。
喜んでいる子供達に囲まれているのが益子さんです。
 コソボ戦争が終わったのが1999年6月。その直後から約3年間、国連移行暫定行政府でコソボ復興に従事しました。それからNY事務局の軍縮局に来て、9ヶ月になりますが、コソボと聞くとうずうずします。箱山さんのお手紙からコソボの平和と復興が着実に前進している様子が窺え、胸が熱くなりました。
 紛争直後のミレニアムの新年は コソボ西部の県都、スキャンデライで迎えました。この地域はコソボの中でも格段に貧しく、また民族間紛争で最も被害を受けた地域のひとつです。家や学校が破壊され、燃やされ、たくさんの人々が殺されました。私はここの越冬援助プロジェクトに参加して、2000軒の民家の再建にあたっていました。同じく国連から派遣されていた、当時の井上市長に駆出されて、市役所前で炊出しや、キャンプ ファイアー, 福引きなどをして、正月を祝いました。祝砲とはいえ、あちらこちらで自動小銃の銃声が響いていました。プロジェクトで雇ったローカルスタッフまでが拳銃を持出して、市役所のオフィスから発砲する始末。




破壊された民家と、再建された同家の前に立つ老夫婦。
 2001の新年は、コソボの首都、プリスティナの下宿先で迎えました。大家の家族全員が僕の部屋に入ってきたので、何事かと思ったら、部屋のベランダから花火がみえる、ということで例によって勝手に入ってきたのでした。最後まで下宿人のプライバシーは無視され続けましたが、これもコソボの国民性(?)。今となっては懐かしくてしかたありません。まともな花火はほんの少しで、ほとんどがロケット花火、爆竹、それから発砲だったように記憶しています。
 2002 はコソボから一時帰国中で東京にて過ごし、そして今年はNYのセントラルパークから打上げられる花火を見ました。
当初はNYに来ても、逆カルチャーショックとでも申しましょうか、シャワーのお湯がすぐなくなりそうで、水流を細くしたものでした。
まだまだ復興には時間がかかることと存じます。みなさんお元気でがんばってください。
益子卓



←越冬援助プロジェクト:コソボの冬は本当に厳しい!マイナス10度〜15度が続くので、しっかりした家と暖房がないと、凍死してしまいます。
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