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2003.12 | back|next | ||
ディタ・フラムーリ 11月28日は「ディタ・フラムーリ」というコソヴォの祝日。直訳すると「フラッグ・デイ」「旗日」であるがいわば「独立記念日」。コソヴォの90%近くを占めるアルバニア系住民は、1912年のこの日にアルバニアが何世紀にもわたるオスマン・トルコの支配から独立した故事を祝う。この日には民族の象徴である赤地に黒い鷲の描かれたアルバニアの旗が町中に掲げられ、爆竹や銃(非合法だが多くの家が持っている)の音を響かせる。大通りや広場は勿論、各家や商店も軒並み旗を飾る。窓に垂れ提げたり、ガラス戸いっぱいに張ったり。店も休みなのだが、それでも外からきちんと見えるように、それぞれ工夫をこらす。 コソヴォがアルバニアと同じ国だったのは、第二次世界大戦中、1941年から44年の間 と短い。1912年の独立の際はアルバニア系地域は近隣諸国(セルビアや、マセドニアやモンテネグロ)によって切り取られ、アルバニアという国はアルバニア民族の半分しか住まない、地味の瘠せた地域に狭められてしまい、コソヴォはセルビア領となる。(後のコソヴォ戦争の種はこのとき蒔かれた。)そして、ムッソリーニによるアルバニアとの4年間の合併時代を経て、1944年にはコソヴォは再びセルビアに併合される。コソヴォの人々の、穏やかながら強靭な精神は、90年間、ほとんどセルビアに支配され、セルビア語を強いられながら、また、それ以前はオスマン・トルコの絶対的な影響下にありながら、アルバニア語とアルバニア文化を維持し続けたという事実に、見て取れる。 今コソヴォでは(少なくともアルバニア系コソヴォ人は)コソヴォの「独立」を目指していて、アルバニアと合併しようという動き(いわゆる大アルバニア主義)はない。しかし、コソヴォとアルバニアの繋がりは依然として深い。近しい親族(おじさんとか従兄弟とか)が両国に分かれて住んでいることが多いし、コソヴォ戦争の時は多く人が雪山を歩いて越えてアルバニアに避難した。また古今の英雄は民族共通の偉人である。先日聖人に列せられたマザーテレザも、民族の自覚を促しオスマン・トルコと戦ったスキャンデルベグも、イスタンブールの数々のモスクを作った大建築家シナンも、アルバニア国ではなく、アルバニア「民族」の誇りとしてコソヴォでも、マセドニアでもモンテネグロでも、アルバニアでも、愛され、尊敬されている。 コソヴォの人たちの民族のアイデンティティーとしての「旗」に寄せる想いは熱い。戦争による破壊からの復興で、コソヴォでは建築ラッシュが続いているが、家が出来上がるまで屋根の上にもこの旗が掲げられている。(丁度日本の棟上式の時みたいに)。11月28日に、町中至る所に溢れる赤と黒の色は、人々がどれほどアルバニア「民族」としての意識を先鋭的にもっているのか、その証しなのである。 筆者:ブチェ・ザトリチ |
1. 男子服の店で。 2. 古いモスクと旗。 3. 祝日で鎖戸を閉めても 店の中に飾られた旗が見える。 4. 街角のキヨスクに掲げられた旗。 5. 商店のガラス戸に張られた旗。 |
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