パリで活躍する素敵な方々にインタビューし、それぞれの「モンパリ」をお聞きします。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
愛する街パリを描き続ける 
その2 変貌する街を描く。 2008.12

  “同世代では最も偉大な画家の一人”といわれる赤木曠児郎さん。40年来描き続けたパリの街は、芸術作品としてはもちろん、貴重な歴史的資料としても認められています。1993年パリ市と東京都友好都市提携10周年や、2008年日仏交流150周年の記念行事としても特別展が企画されるなど、日仏を結ぶ文化大使的な存在ともなっている赤木画伯に、渡仏から現在の制作活動に至るまで、パリのアトリエでお話をお聞きしました。

赤木曠児郎(あかぎ こうじろう) さん
1934年岡山市生まれ。岡山大学(物理学科)を卒業後、1963年パリに渡る。ボザール(パリ国立高等美術学校)で絵を学び、油彩、水彩、リトグラフによるパリの風景を描き続ける。
フランス芸術家サロンで1971年に水彩、1974年に油彩で金賞、1975年フランス大統領賞他、受賞多数。ファッション記者としても活躍し、フランスモード産業振興の功労ジャーナリストとして、1975年「金の針(ピン)賞」を授与される。1994年と1998年紺綬褒章、2002年海外功労者として外務大臣表彰(銀杯)、2005年旭日小綬章受賞。
サロン・ナショナル・デ・ボザール名誉副会長、各種美術団体会員。フランスと日本を中心に、各地で展覧会を開催。作品は数々の有名な美術館、フランス国家を始めとする公共機関でも所蔵される。

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6、街でのデッサンや、アトリエで大きなキャンパスに向かう時間など、制作には一定のペースがあるのでしょうか?どのように作品に取り組んでいらっしゃるのですか?
 ペースはやっぱり、街に出てっていうのが基本だな。雨が降らない限り、毎日。雨だと、アトリエから外の景色を見て描いて。午後は油絵に取り組んだりね。冬も外で描きますよ。冬の街がまたいいんだ。日が短いからすぐ暗くなっちゃって、長くは描けないけれど。寒くないようにしてね。冬にスウェーデンに行っても寒くないようなのを買ったんだ。手も手袋をしてね。
 常に街の風景は描きつつ、人物や静物画、空想画とか、色々な作品を平行して描いているよ。空想画の時には、建物のように水彩デッサンはしないな。キャンパスに直接絵の具を塗って描いていく。でも、ひとつの作品を仕上げるのには、時間がかかるよ。油絵は、1回塗ったら、次塗るまでには、乾かすのに1ヶ月おきなさいっていう。それを間違えるとひびが入る。油絵っていうのは、地を描いて、その上にまた描いて、また描いて。常に描くからね。1回塗った上にまた線を描いて。
 それに、頭の中が、切り替えが大変だ。いくつかの作品に同時にかかっていると。だから、色んな展覧会に出すんだ。だって、約束したら作らなきゃいけないから。まぁいいや、まぁいいやって思っていると、いつまで経っても終わらない。最後はそれだけを集中して一気に仕上げるけれど、そこに行くまでは、時間がかかる。最初から1つだけに取り組んで仕上げたいんだけど、それに向くまでに、時間が必要なんだ。自分の中で、熟成しないといけない。チーズみたいなものだよ(笑)。

7、 建物を描いている時と、その他の、静物画や裸婦像などを描く時と、気持ちの面での違いや、難しさを感じることはありますか?
 気持ちの違いは全然ないけれど、どういうことがやってみられるだろうかっていうのが、楽しいんだなぁ。だから、裸婦を描くのも、どういう風に描けるかっていうのをやってみているわけ。僕の絵の、このやり方を開発したのが、建物で成功したから。成功したって言葉を自分で使うのもおかしいんだけど、建物で自分の絵の形ができた。それを今度は、建物以外の物を描いたらどうか、その可能性を探っているんだね。
 難しさはあるよ。例えば、建物の時はできるだけデータを細かくして描く。でも、それを人間にやったらどうなるか。データはいいかげんにするわけにはいかないのだけど、まつ毛1本1本描く、ここのひげ、ここのしわも描いてってやったら、赤ん坊でもお婆さんみたいになっちゃう。かわいくなくて(笑)。これだけデータがあっても、逆に省略してしまわないといかんわけだね。建物だと、ある線を1本1本描くのが、人間だとそれはできない。だから、裸婦はどこまでデータを省略して、どこまで残して、というのが難しい。

8、 ここの場面を描こうというのは、どのように決めるのでしょうか?パリ以外の街を描きたいという興味や、日本を始め、他の地に拠点を移す可能性は?
 例えば、これは公爵夫人が住んでいて、1920年代には音楽家がここに招待される、ここに呼ばれたらみんな着飾って行って、みんなここに潜り込みたくって仕方なかったっていう屋敷なんだよ。僕はその歴史の物語を見るのが好きで、そういう所を探しちゃ行っているの。歩いていて、ここを描いてみたいなぁというのも、もちろんありますよ。
 パリ郊外もいいけれど、僕が描くのは「パリ20区」って決めている。ここだけで、もういっぱいだから。他の場所に行った時も、景色を描いてみたいとはいつでも思うけれど、僕のこのやり方でやる限りは、少なくとも2ヶ月は滞在しなきゃ描けないし、それはできないから。現地でちょこっとスケッチ画をしたりはするよ。他を拠点にすることは、今のところ考えてないねぇ。日本はいつか描いてみたいなぁとは思うけれどね。

9、周りからの評価によって不快な思いをさせられることはありませんか?外国人であることによる困難を感じたり…。
  不快な思いはしない。何でも、言いたい人は言えばいい。自分は考えているようにやるだけ。悪口でもいい。言われた方が宣伝だから(笑)。一番嫌なのは、無視だろうね。全然もう、何も言ってもらえないというのが。
 僕は外国人だから、すごい差別はありますよ。ここの人達は、常にこれはもう、外国人は絶対認めたくないの。僕はもう40年いるけれど、でも認めたくないの。まぁ、耐えていくから、外国人は。それが自分の刺激剤だからね。どんなものでも、彼らは面と向かって批判したりとか、議論になるようなことはない。表面上は、「見たら褒めとけばいい」って。直接には言わないんだけどね。
 それにしても、フランス人は「これはできない」って言うよ。もうねぇ、街で描いているとみんな話しかけてきちゃう。僕は外国人の顔をしているから、あまり話しかけてこない。でも、話しかけて通じるとなると、べらべらべらべら、しゃべってしゃべって(笑)。話して動かないの。いやぁ、描けなくなりますよ。線を引く時は、息も詰めて描いているからね。途中で話しかけられたら、線が折れちゃう。だから、僕は知ら〜ん顔しているの。答えないと「失礼だなぁ」とか何とか言って、そのうちどこかに行っちゃうから。だから、フランス人にはできない、外国人であることを100%活かしているんだ。
 それでも、展覧会を観に来る客の何分の1かは、道端で知り合った人達だよ。「この絵をどうするんだ?」って聞くから、「個展に出すんだ」って答えたら、「いつどこで展覧会やるんだ?やる時には行くから」って名前まで置いていって。彼らは絵が好きなんだろうね。だから、みんな熱心に見ているよ。最初は「何だろう?」という感じでこっちを見ているけれど、少しずつ絵になってくると絵描きだってわかるから、段々知り合いになって。何度も通う近所の人達とはやっぱり馴染んでおかないと。警察に通報されたりしても困るからね。描いている間は、あっちに行っていてくれって思うけれど(笑)。

色々なタイプの作品に取り組み、常に新しい可能性も探求し続ける。


黒いインクで描かれたデッサンには、ずらりと並んだ鉄の柵の本数、積み重ねられた石の枚数など、細部に至るまで少しのごまかしもない。


現場に通って仕上げられた水彩画(左)を元に、アトリエで制作される油絵(右)。そのままでも作品として出せるような完成度まで描かれた後、さらにその上に、丹念に赤い線が引かれていく。全く同じ1つの場面から、どちらも赤木画伯ならではの、印象の違う2つの作品が生まれる。



机の上には、使い込まれた、たくさんの筆が立てられていた。
10、最後に、パリでお気に入りの場所があれば、教えていただけますか?
 みんなが聞くでしょ。「全部だ」って答える。だからパリを描く。パリが好きだから、変貌する街を描く。わざわざ昔の街並みだけを描こうとは思わない。新しい建物だって古い建物だって、みんな今のパリだから。わざと古い壁だけを描く人もありますよ。その方が売れて、ビジネスになるということで。好きな人が多いからね。日本人はよく、「ユトリロの絵が何々…」とか言うでしょ。でも、モンマルトルとか、ユトリロが描いた街っていうのは、現代のパリにはないんだからね。ペンキの質も変わって。ああいうペンキは、今はないんだよ。僕が来た頃の、みんな真っ黒で、上に白い埃が乗っかっていて、触ればぽろっと落ちるような壁は。そうだったんだよ、真っ黒の街だったんだよ。それを今は真っ白にして。
 好きでよく歴史を調べたりもするけれど、ただ、いくら研究しても、僕は“第一次資料”にまではなれない。そこまではやれない。研究は、日本で何か書いたって、みんな何か元があるのを訳しただけだから。だけど、ここにある絵は“第一次資料”だ。最初の水彩画100点は、今はそのまま全部カルナヴァレ(パリ市カルナヴァレ歴史美術館)にあるよ。その中に描かれた建物には、もう壊しちゃったものもある。だから僕は、今ある物を僕の目で見て描いている。これはもうやめるわけにいかないよ。

 巨匠と呼ばれるようになっても、変わらず道端でパリを描き、街の人々とも気さくにお話をされる(もちろん制作中ではない時に…)赤木画伯。「“好きな作家”っていうのはないな。プロからアマチュアまで、みんなそれぞれいいところがあるし。どう〜しても好きな作家を1人選べって言われたら“僕”だ。うん。」とおっしゃる眼差しには、優しい笑顔の中にも、作品に対する妥協のない厳しさと、確固たる信念を感じました。マイナスに思える要素もプラスのエネルギーとして受け止めてしまう器の大きさ、その真摯な生き方や温かいお人柄に強く感銘を受けてアトリエを後にすると、パリの街が赤木画伯の作品と重なって見えるようでした。

その1 赤い線が生まれるまで
【back number】 vol.1 パリは私を放っておいてくれる街 平沢淑子さん
  vol.2 パリのエネルギー源は人間関係 芳野まいさん
  vol.3 エール・フランスパイロット 松下涼太さんに訊く
  番外編 ワイン評論家 “ジャン・マルク・カラン“に訊く
  vol.4 全てが絵になるパリの景色の中で 寺田朋子さん
  vol.5 マダム・ボ−シェに聞く
  vol.6 日仏交流の最前線で
  vol.7 パリで育ち、世界に羽ばたく 山田晃子さん
  vol.8 光に魅せられて 石井リーサ明理さん
 

vol.9 音楽の都・パリのピアニスト ジャン・ルイ・ ベイドンさん

 

vol.10 光を求めて マリー・ジョゼ・ラヴィさん

 

vol.11 「ミラベル Mira-Belle」帽子で世界一周とタイムトリップを

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