パリで活躍する素敵な方々にインタビューし、それぞれの「モンパリ」をお聞きします。



セ・サンパ
感じいい!親切!ちょっと贅沢!「セ・サンパ」とパリジャンは表現します。そんなサンパなパリを、ほぼ毎週更新でご紹介しています。
デザイナー Reiko Kozaki Méry 
  2010.01
<フランスがとても好き>
愛知県新川町(西春日井郡)うまれ。
東京に13年、その後ニューヨークにも13年暮らす。2004年より、仏夫と米猫と一緒にパリで暮らしている。8歳の時に油絵を始め、美術館がたくさんあるパリの魅力にはまった。貯金して16歳の時にパリへ。30年前のパリもよく知っている。フランス国籍になって2年目のフランコ・アメリカーノ・ジャポネーズ。

<職業は『私であること』>
現在、ウェブ・デザイナー。
ニューヨークでは、バーンステイン・ディスプレイ社にて、グラフィックと店舗什器デザイナーである傍ら、エミー・スー・ローザンのダンスカンパニーでコスチュームデザインを担当。自身も日本でダンサーだったことがある。日本ではネクタイデザイナーをしていた。その他なんでも、デザイン系は手を出している。執筆活動も精力的にこなす。好奇心の塊のような人間であるため、活動が多岐にわたる。

<自由が好き>
自由を求めて、東京、ニューヨークへ。そして現在はパリで生きる、典型的都会好き。その一方で、アマゾンのジャングルで蚊と戦ったり、インドでベールをかぶって生活したり、ボリビアでねずみのいるキッチンで食事したり、ヴェトナムのサパ村の住民と値段交渉をするのも好き。
 

Farida Hamak
 ■ Interview その1

1、世界の首都に生きてきたReikoさん、東京ではその後につながる、人やアイデア、表現方法などとの印象的な出会いがありましたか?
  デザイナー時代にありましたね。東京での学生時代、実は密かに「私はアーテイストとして大きく欠けているところがある、私は色音痴だ」って思ったんです。
油絵は8歳ぐらいから始め、武蔵野美術大学でも油絵専攻でしたが、卒業後に画家である前の夫に出会い、私は油絵をやめました。色音痴なんて誰にも言われたことはなかったのですが、彼の絵を見て思いました、「色音痴な私が油絵を続けてはいけない」と。

卒業後は、ネクタイデザイナーのアシスタントを1年間やりました。その時、色のセンスに非常に優れた上司に出会って、びしびし鍛えられたのです。配色ばっかりやってればセンスって向上するものですわ。才能が無ければだめだと思っていましたが違いましたね。その後デザイナーに昇格し、約9年間その会社で働きました。反対に色を褒められるデザイナーになりました。今でも色を褒められます。面白いものですね。

2、その後の、渡米のきっかけは何ですか?
 日本にいては、自分が無くなる、否定されるって感情が渡米のきっかけになりました。

東京のデザイナー時代は好きなことをやらせてもらえました。自分のブランドを立ち上げたのも興味深い経験です。チーフデザイナーに昇格し、今度は自分がアシスタントを教える立場になりました。大変素晴らしいチャンスがいっぱいでした。

が、2つのことを思いました。
まず、この組織形態だと、将来、部長や課長になった時、経営管理が大変で自分の「ものづくり」は無くなる。もうひとつは、いつまでたっても女性の差別は止まない。私が会社で何かすると必ず「女なのに」という表現が付くのも嫌でした。

「女なのに才能がある」って何でしょうかね??
「女のくせにビールを注いだことがない」とかね。
賃金格差をなくす法律ができた時には、私の給料は大幅に上がりました。つまり「女なのに才能がある」が「給料は女並み」だったわけです。

「女なのに課長に昇格するかもしれない」時、渡米することになりました。ニューヨークの大学に合格したのです。社長はひどく怒り、周りはもったいないって言いました。

社長にこう提案されました、「大学卒業後、戻ってきたらチーフデザイナーの肩書きを付け、給料も男性チーフデザイナーと同じにする」っていう・・・。その時はチーフデザイナーの仕事をしていたのですが肩書きは何も付いていなく、給料は男性平社員と同じでした。でも実は「女なのに給料は男と同じ」って、ありがたがらなければいけない時代だったようです。その上、女なのにチーフデザイナーの肩書きが付き、女なのに男性チーフデザイナーと同じ給料がいただけるっていう提案・・・。

でも、そうやってありがたがらねばならないのは窮屈でしょう。

他の会社だったら違うかもしれないって探しましたが、やっぱり日本そのものがそんな雰囲気だったようです。
今は変わってますかね??
変わっていたらいいですね。

3、 ニューヨーク時代に、グラフィックデザイン職をこなす一方、コスチュームデザインを手掛けることになった経緯は?
 それ、逆です。
コスチュームデザインの切っ掛けのほうが早く来たんですよ。


ファッション・インスティチュート・テクノロジー大学(FIT)を卒業した時、何とかファーニチャー・ペインティングの仕事に就きました。毎日家具にデッサンを施して仕上げていく日々の中で、コスチュームデザイナーの夢ってどこに行っちゃうんだろうと思いました。実は大学2年次にコスチュームデザインに魅かれ、専攻を変えようと思ったのですが、私の転入したい大学は私立で学費が高すぎたんです。しょうがないのでFITに残って什器デザインの勉強を続ける傍ら、片っ端からコスチュームデザインの講義を取りました。卒業したらディスプレイ関係の職に就こう、そしてお金をためて今度はコスチュームデザインを学べる大学に行こう・・・と考えたんです。

ある日、FITのコスチュームデザインの先生から電話がありました。ダンスカンパニーを率いるエミー・スー・ローザンがコスチュームデザイナーを探していて、先生は私を推薦したというのです。チャンスは来たんです。
それで大嘘つきました、縫う技術なんててんで無かったのに、縫うことができるって嘘ついて採用になったんです。縫う技術のある友人に電話して彼女と一緒に仕事をすることになりました。それで、私は急いでミシンを買いにいって、次の日から練習を始めたのです。

Reiko Kozaki Mery
「Break / Broke」の衣装 2003年
Amy Sue Rosen & Derek Bernstein Theater DTW in N.Y
エミー・スー・ローザンはニューヨークのダンス界では有名な方で、彼女と2回目の仕事をした時、私の名前がニューヨーク・タイムズ紙に載りました。その後8年間、彼女が死ぬまで一緒に仕事をしました。彼女の仕事をしたことで他のクライアントもつかめました。さらにFITの学部長がアメリカのサマーシアターを経営していまして、そちらのコスチュームもやらせてもらえました。嘘をついて独学で、夢が叶いました。

Reiko Kozaki Méry
「Sugarlea」の衣装 1996年
Amy Sue Rosen & Derek Bernstein Dia Center for Arts in N.Y

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【back number】 vol.1 パリは私を放っておいてくれる街 平沢淑子さん
  vol.2 パリのエネルギー源は人間関係 芳野まいさん
  vol.3 エール・フランスパイロット 松下涼太さんに訊く
  番外編 ワイン評論家 “ジャン・マルク・カラン“に訊く
  vol.4 全てが絵になるパリの景色の中で 寺田朋子さん
  vol.5 マダム・ボ-シェに聞く
  vol.6 日仏交流の最前線で
  vol.7 パリで育ち、世界に羽ばたく 山田晃子さん
  vol.8 光に魅せられて 石井リーサ明理さん
 

vol.9 音楽の都・パリのピアニスト ジャン・ルイ・ ベイドンさん

 

vol.10 光を求めて マリー・ジョゼ・ラヴィさん

 

vol.11 「ミラベル Mira-Belle」帽子で世界一周とタイムトリップを

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