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			1、世界の首都に生きてきたReikoさん、東京ではその後につながる、人やアイデア、表現方法などとの印象的な出会いがありましたか?  
             
            デザイナー時代にありましたね。東京での学生時代、実は密かに「私はアーテイストとして大きく欠けているところがある、私は色音痴だ」って思ったんです。 
油絵は8歳ぐらいから始め、武蔵野美術大学でも油絵専攻でしたが、卒業後に画家である前の夫に出会い、私は油絵をやめました。色音痴なんて誰にも言われたことはなかったのですが、彼の絵を見て思いました、「色音痴な私が油絵を続けてはいけない」と。
			 卒業後は、ネクタイデザイナーのアシスタントを1年間やりました。その時、色のセンスに非常に優れた上司に出会って、びしびし鍛えられたのです。配色ばっかりやってればセンスって向上するものですわ。才能が無ければだめだと思っていましたが違いましたね。その後デザイナーに昇格し、約9年間その会社で働きました。反対に色を褒められるデザイナーになりました。今でも色を褒められます。面白いものですね。 
                 
                2、その後の、渡米のきっかけは何ですか?  
               日本にいては、自分が無くなる、否定されるって感情が渡米のきっかけになりました。 			
			東京のデザイナー時代は好きなことをやらせてもらえました。自分のブランドを立ち上げたのも興味深い経験です。チーフデザイナーに昇格し、今度は自分がアシスタントを教える立場になりました。大変素晴らしいチャンスがいっぱいでした。 
			が、2つのことを思いました。 
			  まず、この組織形態だと、将来、部長や課長になった時、経営管理が大変で自分の「ものづくり」は無くなる。もうひとつは、いつまでたっても女性の差別は止まない。私が会社で何かすると必ず「女なのに」という表現が付くのも嫌でした。 
			「女なのに才能がある」って何でしょうかね?? 
			  「女のくせにビールを注いだことがない」とかね。 
			  賃金格差をなくす法律ができた時には、私の給料は大幅に上がりました。つまり「女なのに才能がある」が「給料は女並み」だったわけです。 
			「女なのに課長に昇格するかもしれない」時、渡米することになりました。ニューヨークの大学に合格したのです。社長はひどく怒り、周りはもったいないって言いました。 
			社長にこう提案されました、「大学卒業後、戻ってきたらチーフデザイナーの肩書きを付け、給料も男性チーフデザイナーと同じにする」っていう・・・。その時はチーフデザイナーの仕事をしていたのですが肩書きは何も付いていなく、給料は男性平社員と同じでした。でも実は「女なのに給料は男と同じ」って、ありがたがらなければいけない時代だったようです。その上、女なのにチーフデザイナーの肩書きが付き、女なのに男性チーフデザイナーと同じ給料がいただけるっていう提案・・・。 
			でも、そうやってありがたがらねばならないのは窮屈でしょう。 
			他の会社だったら違うかもしれないって探しましたが、やっぱり日本そのものがそんな雰囲気だったようです。 
			  今は変わってますかね?? 
			  変わっていたらいいですね。 
                 
                3、 ニューヨーク時代に、グラフィックデザイン職をこなす一方、コスチュームデザインを手掛けることになった経緯は? 
                  それ、逆です。 
コスチュームデザインの切っ掛けのほうが早く来たんですよ。  
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